夕希side ♯19


 

書き写したメモの住所は、夕希の脳にインプットされていた。

タクシーでその場所を告げ、家の近くで降ろしてもらう。まだ新しそうな淡いブルーの壁にダークグレーの屋根の家の表札には、淳弥と麻衣香、そして結衣の名が刻まれてる。

昨夜見かけた白い車も、庭先に停まっていた。

(これが淳さんのもうひとつの家なんだ…)

さりげなく通りすがっただけで、わかってしまったこれだけの情報。

怒りと哀しみ、絶望と罪悪感、様々な感情に夕希の心は揺れ動く。心を落ち着かせるように、深呼吸して前を見ると、琢朗が心配そうな目つきで夕希の顔を覗き込んでいた。

「ひでえな」

夕希の意見を代弁してから、「ぼこっちゃおうか? 俺意外と腕力あるよ?」琢朗は過激な意見を述べる。

ひとりじゃなくて良かった。自分ひとりだったら、到底受け止め切れなかった…と、夕希は琢朗のお節介に感謝して、くすっと笑う。

「…暴力はダメだよ。淳さんと話したい」

ことここに来て、淳弥も嘘を吐いたり逃げ隠れしたりしないだろう。夕希はスマホを取り出す。

気付かなかったが、昨夜遅く淳弥からラインのメッセージが入ってた。

――出張なので、しばらく留守にしてます。おみやげ買ってくるね



何も知らなければ、にやにやして読んだであろう、メッセージが今は虚しい。

基本的に淳弥は優しいし、まめだ。でも、その優しさは使い方も向ける相手も、間違ってる…白い車の脇に置かれた小さな自転車を見たら、夕希は居た堪れない気持ちになった。

家の周囲にめぐらされたラティスに手を掛け、じいっと中の様子を窺っても、レースのカーテンに遮られて、淳弥の様子は見えない。


「…突撃しちゃう?」

せっかちにも琢朗が表札の脇のブザーを押そうと人差し指を伸ばす。

「ま、待ってよ」

まだ心の準備が出来てない。慌てて夕希が琢朗を制止する。

「何だよ、ここで帰るなら何のために…」

「ま、待って。今、淳さんのところにライン…」

押し問答をしてた時だった。庭に面したリビングの窓が開いて、そこからランドリーバスケットを抱えた女性が出てくる。

(…麻衣香さん!)

人の家の玄関先での不審な人物に麻衣香も何かを感じたのか。

一旦、カゴをリビングに戻すと、夕希達の方に寄ってきた。


「…何か御用ですか?」

夕希より高い上背のその人は、首をかしげながらこちらに来る。

(…ど、どうしよ)

「上條くんのばか」

「何言ってんだよ。呼び出す手間が省けたじゃん」

「…お、奥さんには別に」

彼女が近づく間に、琢朗とこそこそとやりとりする。


そう、妻には会いたくなかった。


高い上背。ピンと背筋を伸ばして、その人は真っ直ぐに夕希の方に来る。堂々とした態度は、妻としての自信に満ちてる。引き換え、こんなところからこそこそと中の様子を覗いてた自分が、夕希はたまらなく惨めになった。

「うちに何か用ですか?」

夕希と琢朗の正面に立って、同じことをもう一度麻衣香は聞いてくる。


この人は知ってるのだろうか。夫の裏切りを。


知っていたとしても、動じなそうだ。この人にとっても、自分が知らない間の夫の情事なんて、蝿がたかって、夫の血液を吸っていった、くらいの出来事かもしれない。

それくらい、揺るがないものを感じ取って、夕希は知らないうちに気圧されていた。足が自然に半歩下がる。

「いえ、あの…」

言って、しまおうか? でも、なんて。


私は貴方の旦那さんの愛人です?


ちょっと違う。すごく嫌だ。

淳弥に言うべき言葉ばかりを考えて、万が一にも妻と対峙した時の用意は、夕希は何もしていなかった。


その時。

「ママー、お客さま?」

と、舌っ足らずな言い方で、幼い子どもと、そしてその後ろから、淳弥がやってきた。夕希を見つけた瞬間、妻の背後で、淳弥はこれまで夕希が見たこともないくらい、困った顔になった。

眦を下げ、口元がだらしなく歪む。

パーツは同じなのに、普段の営業スマイルとは似ても似つかない情けない表情だった。


「いとちゃん」

まだ関係を持つ前の呼び方で呼ばれ、夕希はずきんとなった。

「あら、知り合い?」

意外そうに、麻衣香は淳弥を振り向く。妻の疑問に対しての、淳弥の答えは、妻だけを気遣ったものだった。

「会社の事務の子なんだ」

さらっと嘘をつかれ、またじくじく胸が傷む。淳弥にとって、ここでの夕希との対面なんて、あってはならないことだし、迷惑以外のなにものでもないのだろう。

 

「あ、じゃあ上がってもらわないと」

「いや、いいよ。僕が忘れた書類を届けにきてくれたんだろう。君は結衣と家に戻ってて?」

夕希が驚くくらい、淳弥は冷静にその場を取り繕い、手を繋いでいた結衣を抱き上げ、麻衣香の腕に託す。

「遠いところまでごめんなさいね」

娘を抱き上げて、夕希に微笑む彼女には罪はない。まだ何もわからない小さな子どもの前で、オトナのみっともないバトルを見せることも出来ない。

 

「ヘタレ」

琢朗の唇が無音で夕希を罵倒する。わかってる。

でも。まだ淳弥の口から真実は聞いてない。証拠は全部揃えて、資料は出来る限り集めて。舌鋒を鋭く相手を攻撃するのは、それからでいい。

 

 

麻衣香が家の中に入るのを慎重に見届けてから、淳弥は言った。

「こんな処まで…ルール違反だよ、夕希ちゃん」

「だったら…淳さんだって、ずるいです。私に本当のこと、教えてくれなかった…。奥さんも子どももいたなんて」

夕希が責めると、淳弥は自宅の方を振り返る。

「聞かなかったじゃん」

「あんた…」

淳弥の逃げ口上に琢朗の方がかっとなる。ボコっちゃう? さっきの物騒な台詞を思い出して、夕希の方が焦って、必死に琢朗を止めた。

「上條くん!」

琢朗の腕にしがみつきながら、夕希は言った。

「少し…ふたりで話したいです」

夕希の切実な要求を、淳弥も琢朗も否とは言わなかった。

 



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