夕希side ♯2


弁護士になりたい。


それが夕希の中学校以来の夢だ。法律を謳っておきながら、実質余り法律は関係ないバラエティも、大げさな弁護士の出るドラマも。学生用に優しく読み砕いた憲法の解説書で、読書感想文を書いてきたのは、俺の長い教員生活でもお前だけだ、と中学校の国語の先生にため息をつかれたこともあった。



――人が人を守るのよ、法はその手助けをするだけ。そして法の知識は、きっと貴女を強くする。



座右の銘にしてる言葉を今日も脳裏に響かせながら、夕希はパン屋のエプロンと三角巾を外し、店裏に停めてある自転車に跨った。



夕方ぎりぎりまでアルバイトをしているから、夕希が大学院の教室に入るのは。講義の始まる数分前が常だ。

その日もそうで、学校から徒歩8分のアルバイト先から走ってきた夕希は汗だくになりながら、パッと見て開いてた席に着く。

(あー、お化粧落ちてるなあ…)

ハンカチで押し付けるように、鼻の頭の汗を拭う。隣の席の子に話しかける勇気なんてない。


ひっそりと縮こまってるつもりだったのに。



「コンバンハ、糸井サン」

いきなり名指しで声を掛けられてびくっとなった。

「こ、こんばんは」

夕希はのけぞりながら、挨拶を返す。棒読みで挨拶をしてきた彼は上条琢朗。夕希とは同い年の学生だ――。


彩度の高い茶髪に手首には幾重にもしたバングル。迷彩のジャケットにクラッシュジーンズ。ギターでも背負わせた方がよっぽど似合う出で立ちで、教室内でも異彩を放っている。

けれど、成績は優秀で、授業態度も至極まともだ。クラスの成績のトップ争いを、琢朗と夕希はこの大学院の前の法学部の頃からずっとしている。見た目と中味のコレほど違う例も珍しい。



「相変わらず早い出勤で」

「か、上条くんこそ。いつも前の方の席なのに、今日はずいぶん後ろだね」

「最前列の女の香水の臭いがきついから。臭いも法律で取り締まればいいのに」


迷惑防止条例とか? しかし話を返すと、更にややこしくなりそうだから、夕希は黙ってリュックからテキストを筆記用具を出す。講義の始まる前から、彼と議論はしたくない。



(上条くんの隣だったのか…今、席を移るのはいくらなんでもみっともないよね…)

 

 

どうせ講義が始まってしまえば、隣は関係ない。先生の話す内容に集中するだけだ。

 

ろくに周囲を見ずに座ったことを後悔しても、今更代わるのはみっともないし、大人げない。

小さくため息をついて、夕希は教授の訪れを待った。




今日もこのあとレジのバイトがある。チャイムが鳴ってる間に、夕希は机の上のものを取りまとめる。

リュックに詰めると、持ち上げるのに、ちょっと間を置いた。認めたくないが、疲れているらしい。よし、と気合を入れて立ち上がり、教科書やらペットボトルやら、化粧ポーチやらを詰め込んだリュックを背負う。

想像より、重かった。

重心のバランスを崩して、夕希の身体がふらっと揺れた。


「糸井さん」

背中から倒れそうだった夕希を支えたのは、意外なことに琢朗だった。



「…上条くん…」

「平気?」

「…うん」

「今日もこのあとバイト?」

「うん」


夕希が頷くと、琢朗は大げさにため息をついてみせた。



「あのさあ、休めないの?」

「え?」

「顔色、すっげー悪いよ。ゾンビみたい」

「……」

はっとなって、頬に手を当てる。ぞ、ゾンビ?

歯に衣着せぬ琢朗の言い方には慣れているが、それにしてもひどい。

「さ、さっき汗でメイク流れちゃったから、それでそんな風に思うだけだよ。ありがと、上条くん。メイク直して行くから」


強がりながら、教室をでて、トイレに駆け込む。



(あー、確かに)


頷けてしまうくらい、鏡の中の女の子の顔色はひどい。血色も悪いし、艶もない。目の下にはくまがくっきり。



疲れが顔に出てる、ってこういうことかあ。


けれど、今日は金曜日。明日は大学院は午前中から講義があるが、仕事はどちらも休みだ。

大学の費用は親の脛を齧ってるものの、ひとり暮らしの費用は全部自分で賄ってる夕希には、仕事を休む余裕なんてない。


(よしっ、頑張ろ)

持ってたビタミン剤をペットボトルの水で流し込んで、ほっぺたペチッと叩いて、館外に出る。湿気を孕んだ重たい空気が、彼女を包む。



(明日は雨かな…)

滲んだ月を見ながら、ぼんやりと思った。洗濯物溜まってるのに。

彼女はもうひとつの仕事先に向かった。



週末の夜は只でさえ人の引きが遅い。いつもなら空いてくる時間なのに、今日は全く流れが途絶えなかった。夕希にはテレビを見る余裕がなかったが、どうも明日は朝から雨の予報らしく、そんなことも関係してるのかもしれない。

客を迎えて、カゴの中の商品をバーコードで読み込んで、会計をしてもらう。ひとり頭1分くらいのルーティン・ワーク。

身体に染み付いてる作業なのに、今日は心身への負担が大きい。また貧血になってるのかな、立っているのがやっとになってきた。


琢朗の言う通り、今日は休むべきだったか。でも、レジの混雑ぶりを考えると、今、帰りたいなんて言えない。


あと1時間だ。自分を騙し騙しやろうと思ったのに、ぐらっと再び、目眩がした。地球が回ってるような錯覚に襲われ、自分の目の焦点が定まってないのだと気がついた時には、もう、立っていられなかった。

ガクンと膝をついて、白いレジ台にすがりつくように座り込んでた。



「あなた、大丈夫?」

並ぼうとしてた人の良さそうなお客さんが夕希に話しかけてくれる。夜の管理を担当するマネージャーも来てくれて、夕希の周囲は騒然となった。




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