夕希side ♯3


「今日はもう帰って、ゆっくりしてなさい」

レジのチーフの高田という女性は、有無をいわさない調子で夕希に言った。厳しさの中に夕希の身体を心配してるあったかさも感じられ、夕希は従わざるを得ない。

「はい…」

「ひとりで帰れる? ご家族は?」

「あ、いません。ひとり暮らしなので」

高田の眉が歪んだ。親子程年齢が離れてるのだ。実際、夕希よりは年下だが、短大の娘がいると聞いたことがある。

「閉店まで待っていられるなら送っていくわよ? 仮眠室があったから、そこ借りたら?」

「あ、そんな。平気です。貧血収まったんで、もう少し落ち着いたら帰ります」

これ以上の迷惑を掛けたくなくて、夕希はそう言って、何度も高田に頭を下げて更衣室に向かった。


タイムカードを切り、着替えて、外に出ると雨が降り出してた。

「あ~…」

とことんまでツイてない。何なんだ、これは。琢朗の呪いか?


傘持ってない。自転車のサドル濡れちゃったな。タオル…持ってないや。すぐに

動く気力すら分かず、そのまま店の前のベンチに腰掛けた。

細い糸のような雨を見ながら覚えるのは途轍もない自己否定感と閉塞感。一生懸命やってるつもりなのに、どうしてこうから回るのだろう。



「…疲れちゃった…」

口にしないようにしてる愚痴がポロリとこぼれると、余計に身体が重たくなった。

朝までここにいたら怒られるかな、怒られるよね。強がらずに高田さんに送ってもらえば、良かったのかな。思考も散漫でまとまりがない。

苦笑交じりのため息をついた瞬間だった。


「いとちゃん?」

店の自動ドアから出て、店内で売ってるビニ傘を差そうとしてるのは、いつも夕希のレジに並ぶサラリーマンだった。

「あ…」

名を呼ぼうと思っても、よく考えたら名前を知らない。う、私、凄い間抜け。彼は、差し掛けた傘を一旦閉じて、夕希の方にやってきた。


「あ、俺、峰って言うの、峰淳弥(じゅんや)。ちょっと歌手っぽくない? 演歌系の」

自虐的な自己紹介に、くすりと夕希は笑ってしまった。

「どうしたの? 今日はお休みかと思ったよ」

「ちょっと貧血で…」

「あ、そうなんだ。大丈夫? 顔色確かに悪いよね。しかも、雨まで降っちゃってね。俺、この傘、今君の店で買ってきたの」


淳弥はそう言うと、柄の部分についた名入りのテープを見せてくれる。そうか、店で傘を買えばいいのか。そんな当たり前のことにすら気づかなかった自分は、どれだけ頭の回転が鈍くなってるのだろう。

「私も買ってこよ…」

さっきぶっ倒れて大騒ぎになっただけに恥ずかしいけど。夕希はゆっくりと立ち上がる。


「いとちゃん」

けれど、夕希の行動を阻むような強い調子で、淳弥に名を呼ばれた。

「はい…」

「家、何処? 送っていくよ」

「え?」

思いがけない申し出だった。


「こんな夜遅くまで働いてるんだから、家近いんでしょ?」

「ええ…でも…」

見知らぬ…は言い過ぎか、でもよく知らない人に送ってもらうって経験が夕希にはあまりない。危険なことはないのだろうか。

「じゃ、送るよ。こんなおじさんと相合い傘じゃイヤ? あ、名刺わたしておく。うん。オジサンが悪いことしたら、この会社に通報していいよ。勿論しないけど」

「え、え、え」

名刺を両手で受け取った夕希は、淳弥に畳み掛けられて、断るタイミングを完全に逸してしまう。会社は夕希でも知ってる大手のスポーツ用品メーカーの営業課長補佐だった。


(信頼してもいいのかな)

身構えまくってた夕希の心に隙が生まれる。

「…い、いいんですか?」

「いいよ、どうせ帰ってひとりで値引きの弁当食いながら、スポーツニュース見るだけだから」

ベンチに立てかけてた傘を、淳弥は再び、手にして差し掛ける。強引だ。けど、不思議と悪い気も危機感もなかった。

「家、どっち?」

「あ、こっちです」

夕希は線路に垂直に伸びた道を指し示す。

「あ、俺もこっち。図書館があるじゃん、あれより手前? 先?」

「図書館の裏手の道をもう少し…」

「そうなんだ。じゃ、ホント近いな。俺ね、図書館の先にあるコンビニまで徒歩1分のアパートなの」

「ああ…」

アパートまではわからないが、徒歩1分のコンビニはわかった。あそこなら、夕希の家からも、いちばん近いコンビニだ。夕希の住むアパートとも、10分と離れてない。


「いとちゃんて、下の名前なんて言うの?」

「ゆうきです。夕方の希望で、夕希」

「ゆうきちゃん。カワイイ名前だね」

淀みない会話の間にも、ぱちぱちと淳弥の持つビニ傘に雨が当たって跳ね返る。オトコの人と相合い傘って何年ぶりだろ。高校の時に付き合ってた彼と以来ではないだろうか。

並んで歩くと、淳弥は背が高い。158センチの夕希の頭のてっぺんが、淳弥の肩を少し超す程度だ。



「あの…」

「ん?」

「どうして私に声掛けてくださったんですか?」

「困ってる時はお互い様でしょ?」

「でも」

「あー、まあちょっと下心もあったかな? レジ以外で話してみたいと思ってたから」


淳弥は照れくさそうに後頭部を掻く。夕希にまでその照れくささは伝染して、夕希もさっきまで青白かった頬を染めて、俯いた。



異性とこんな風に話すのも久しぶりだ。大学3年の時に郷里に帰って就職することが決まってる彼氏と別れた。それ以来かもしれない。勿論会えば、法律の話か、皮肉を言い合う上条は除く。こういう甘ったるい靄に包まれたような、互いの気持ちを探るような会話が、だ。

(こういう時って、どう答えればいいんだっけ…)

好意を軽く流してしまうのは勿体無い。夕希も気にはなっていた相手だ。けれど、がっつり食いついてしまうのもどうなんだろう。

相手の気持ちと自分の気持ち。見定める恋愛温度計が長年仕舞いこんでいたために劣化して、使い物にならなくなってる。


夕希は無言になってしまい、無機質なグレーの図書館の建物に沿う道をゆっくりと歩いた。ここは、少し傾斜がついていて、側溝の雨水が流れ落ちて行く。坂を降り切ったところで、右に行くと夕希のアパート、左に行くとさっきの話が本当ならば、淳弥の家だ。どちらも

わざわざ夕希のために迂回させるのは申し訳ない。


(ここまででいい、って言お…)


夕希が切り出しそうとした時だった。淳弥は意外なことを切り出した。



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