夕希side ♯4


「夕希ちゃんさあ、毎朝8時頃この坂自転車で走ってるよね」

「え?」

淳弥の言う通りだった。パン屋のアルバイトに行くために、この坂を疾走してる。でも、どうして。

「俺も毎朝、8時ちょっと前に家出て、15分の電車に乗るんだ。だから、結構よく見かけるの。俺を凄い勢いで追い越してく君の自転車」

「そ、そうなんですか…」

は、恥ずかしい。しかも、全く気が付かなかった。朝はいつも起きるのがぎりぎりのため、自転車は爆走モード。ぶつかりそうな障害物以外には目を向けてる余裕もない。

 

「駅前のスーパーの深夜のレジの子だあ、って気がついたの1ヶ月くらい前かな? あんな夜遅くまで働いて、朝はまたこんな時間に出て行くんだね、タフだよね」

「いや、そんな…」

淳弥の話に、夕希はますます肩を縮こまらせた。うー、恥ずかしい…。

「俺、会社の移動でこの街に来て半年くらいになるんだけど。未だに同じアパートの人とも、ろくに顔あわさないし、他につながりもないし。だから、毎朝毎晩夕希ちゃん見ると、頑張ってるんだなあ…って、感心して。そんで、俺も頑張ろう、って勝手に思ってたんだ」

「……」

 

 

(私をそんな風に見ててくれた人がいるなんて…)

 

司法試験まではあと1年を切っていて。同級生はとっくに働いてるのに、未だに仕送りをしてくれてる地元の両親への気兼ね。寝る間も惜しんで勉強とバイトに明け暮れても、全て徒労に終わるのではないかという不安、プレッシャー

 

出口の見えない迷路を歩いていた夕希には、淳弥の言葉は自分のこれまでの頑張りが報われたように思えた。

 

 

「あ、ありがとうございますっ」

「え?」

夕希がぺこりと頭を下げると、今度は淳弥がきょとんとした顔になる。

「…ストーカーちっくでごめんな。うん、なんか勝手に見て、元気貰ってただけだから…

って、それがキモい? キモいよな。俺も、高校生かっ、って何度も思ったし」

「と、とんでもないです。なんか、びっくりしたのと、恥ずかしいので…どう反応していいかわかんなくって」

 

しどろもどろになりながら、夕希は両手を胸の前で振って否定する。

事実、悪い気はしていない。それは即ち、夕希自身が淳弥に好印象を持っていたからだろう。

 

 

「可愛いね、夕希ちゃん」

「いや、あの」

夕希のアパートが見えてきた。ほっとしたような、懐かしいような、夕希は相反する感情に襲われる。

「ありがとうございます」

アパートの外階段の下で、夕希は再び律儀に頭を下げた。

 

 

「…うん、またね」

「はい」

「身体、壊さないようにね」

「頑丈なんで」

 

ふふっと笑い合ってから、「じゃ」と淳弥は踵を返す。

 

 

雨の中また来た道を戻ってく淳弥の背中を見送って、夕希は家に入って、真っ暗の部屋の灯りをつけた。好きだなんて言われていない。付きあおうなんて誘いがあったわけでもない。

 

けれど、今ついたこのLEDの灯りのように、確実に夕希の心にあたたかな火が灯った。

 

(峰淳弥さんか…)

面白いなあ、名刺までくれて。よく見ると書いてあるケータイ番号やメアドは淳弥個人のものではないのだろうか。

い、いいのかな、貰っちゃって。大事に保管しておかないと。個人情報保護法が…。

 

夕希はそっとその小さな白い紙を引き出しの奥に仕舞った。

 

 


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