♯6



バイトの帰りは深夜2時に近い。朝から雨が激しく降っていたので、夕希は今日も自転車を置いてきていた。ちょうど、学校が終わる頃、雨は上がって、今は綺麗な月が雲間から青白い光で夕希を照らしだしている。


みんなが寝静まった街。この時間になると、歩いている人に会う方が稀で、逆に不気味な感じがするから、不思議だ。こんな時間まで何をやっているのだろうと、自分のことを棚に上げて思ってしまう。増して、後ろからひたひたとついてくる場合には。

それはもう恐怖の対象でしかない。

(…気のせい、じゃないよね…)

夕希の足音を追いかけるように響くかつかつと言う足音。怖くて一度も振り向けないでいるのだが、底板がしっかりある固めの靴音――おそらく男性のものだろう。

さっきから、時々歩調を変えているのだが、その音はしっかりと夕希に合わせてくる。夕希は背丈も足の長さも標準の女の子だ。格別歩くのが早くはない。その夕希を抜き去って行かない…というのは、何か意図があるように思えてならない。


(…どうしよう、怖い。お父さんお母さん…)

心臓が胸を突き破って出ていきそうなくらい、早鐘を打つ。

けれど、実家の両親はここから新幹線で3時間も離れた場所にいる。心の支えにはなっても、今この瞬間の手助けは期待出来ない。法科の友人達も、連絡するには躊躇う時間だ。

夕希がひとりひとりの顔を思い浮かべていた時、最後に浮かんだのは淳弥の顔だった。


今日は閉店間際になって駆け込んできた彼は、やっぱり夕希のレジに並んでた。

「接待でさあ、残業になっちゃったんだよ。この時間だと、流石にお弁当も残ってないね。お寿司食べたかったのに」

そう言いながら、お茶漬けの素と、缶コーヒーとウコンの力を買っていた。

あれから40分くらい…。まだ、起きてるかな。

歩調は変えず、気付かれないようにスマホを取り出して、ラインの淳弥とのトーク画面を開く。


――後ろから誰かついてくる、怖い

震える指先で送信マークを押した。届いて欲しい。こんなに切実な思いを込めたメッセージは初めてだった。



重なりあうふたつの靴音を、電子音が乱す。先に狂ったのは夕希の後ろからついてくる足音の方だった。

迷ったのかゆっくりになった足音を聞きながら、夕希は手にしたままだったスマホを耳に当てる。


『いとちゃん?』

淳弥の声に張り詰めていた緊張と恐怖が緩む。

『大丈夫?』

「は、はい」

小声で返事をすると、淳弥の方からふうっと大きな深呼吸が届いた。

『今どのあたり?』

「えっと、図書館の壁がもうすぐ終わるとこ…」

『わかった。すぐ行くから、この電話切っちゃダメだよ』

何かをしながらなのだろうか、淳弥の声も近づいたり遠ざかったり、ノイズが混じったりする。

「は、はい」

『まだついてくる?』

「わ、わかんないです。足音が一旦途切れた気がしたけど、怖くて振り向けなくて」

『うん、振り向かない方がいいよ。』

呼吸を乱しながら、淳弥は言う。もうすぐコンビニが見える。明るいし、人の見えるところまで行けば、危害を加えられる心配は減るだろう。一歩、一歩。近づく灯りが頼もしくももどかしい。足音はもう夕希のものとリンクしていない。けれど、背中にべっとりと貼り付くような視線は感じていた。

「いとちゃん」

スマホからと正面から。2方向から名前を呼ばれた。

「え?」

と思って顔を上げると、淳弥が走って坂をあがってくるところだった。

「おいで」

駆け寄ると、淳弥は夕希を肩をふわりと抱きしめる。

「待ってて」

小声で淳弥は夕希に言うと、男の背中を追いかける。ふたりに背を向けて、元来た道を戻ろうとした男のフードを淳弥はしっかりと掴んだ。

「今度彼女に近づいたら、ただじゃ置かないから」

淳弥がそう脅すと、男は足をもつれさせながら、逆方向に走り去ってしまった。

「…峰さん…大丈夫ですか…」

「ごめんな。彼氏面しちゃった。――怖かったろ」

「い、いえ、平気…」

虚勢を張ろうとしたのに、ほっと安心した瞬間、ぽろっと涙の滴がひとつぶ落ちた。

「ご、ごめんなさ…い」

口元に手を当てて、ごくんと唾を飲み込む。何度も瞬きして、追いだそうとしても溢れだしてしまう水流は止められそうになかった。

「…大丈夫だよ、いとちゃん」

おっきな手が夕希の背中に当てられて、夕希の額に淳弥の胸板がぶつかった。ふわっと香った柑橘系の香りは、柔軟剤だろうか、淳弥の使っているボディソープだろうか。そういえば、髪もまだ濡れている。

(お風呂あがったばっかりだったんだ…)

それなのに、また汗ばむ程走ってきてくれた淳弥のフットワークの軽さ。

(…どうしよ、こんなの期待しちゃうよ…)

自分で思っている以上に、彼に異存してると今、思い知らされたばかりだ。自分はまだ法科院の学生で、恋愛どころじゃないはずなのに。淳弥のことだって、彼の気持ちどころか、どんな人かもよく知らないのに。


何もかもが宙ぶらりんのままなのに、気持ちだけが膨らんでいく。


「峰さん…ありがとうございました」

両腕で彼の胸を押して、密着した距離を開ける。お礼を言って、頭を下げて、そして帰らなきゃ。

ぐらりと傾いた心を立て直そうとしたのに。

「あーもう、俺、我慢するつもりだったのに」

夕希に向けられた言葉なのか、はたまた自身に投げた言葉なのか、そうぼやいてから、淳弥はもう一度夕希の背中に手を回す。

ぐっと押され、もう一方の腕も肩に回されて、夕希が開けたはずの距離は、却って小さくなった。

「いとちゃん、ごめん。好きになっちゃった…」



何処か苦しげな告白が、夕希の耳と心を震わせた。




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