♯8



「いとちゃん、可愛い」

まだ乾き切っていない前髪をかきあげて、淳弥は夕希の額にそっと唇を落とす。

「いとちゃん、俺…」

淳弥の言葉が闇の中に途切れてしまう。

「……峰、さん?」

夕希は下から彼の頬に手を伸ばす。褐色の艶のいい肌。スポーツ用品店勤務だと言っていたが、自分も何かスポーツをやっていたのだろうか、淳弥の肌は年齢よりも若々しいし、今こうして夕希の上にある四肢も引き締まってる。

淳弥に向けて手を伸ばすと、淳弥はその手を取って、頬に張り付かせる。限界まで細められた目は優しい。彼の愛情はひしひしと感じ取れるのに。

「お休み、いとちゃん」

淳弥はそんなセリフで、夕希とのこれ以上の接触は拒絶した。

「…おやすみなさい」

落ち込んだ低い声に、夕希は自分で驚いた。

(あれ、何で私、がっかりしてるんだろ)

ドキドキして損しちゃった。うん、それだけなんだから。抱いて欲しかったわけじゃなくて。

(求められたかった。さっきの言葉が嘘ではないと、確かめたかっただけ)

自分の感情をそう結論づけ、夕希は納得しようとする。淳弥にくっついて横向きになった体勢を仰向けに戻し、瞳を閉じて、夕希は眠ろうとした。けれど。

「いとちゃん」

突然、名を呼ばれ、布団の中で手を握られて、再び夕希の心臓は暴れだした。

「…は、はい」

「怒ってる?」

「え、怒るってどうしてですか?」

怒るというよ、落胆が正しい。

「あ、俺、自意識過剰だよね。ごめん。ん~。なんていうかごめんね、いとちゃん」

俺、臆病なんだ。

夕希にとっては意外な一言を、淳弥は苦笑と一緒に吐き出した。

臆病。そうかなあ。ここまでの彼のアプローチは割と強引なものだったと、夕希が思い起こしていると、夕希の手に淳弥は手を重ねてきた。

「誰かと眠るの久しぶり。手、握ってもいい?」

「…はい」

「俺、いっつも思うんだけど。いとちゃんの手って、あったかいよね」

布団の中で5本の指同士がしっかりと絡められる。

 

近づいてくると思うと、遠ざかって。拒否されたと思うと、また抱きしめられる。峰さんのことは、よくわかんないな

「臆病」なのだと淳弥は自分を評したが、それは正しくない気がする。寧ろ、積極的に線を引かれてるように思えてならない。

それでも、繋いだ手の温もりに、満足して、夕希はいつしか深く眠りに落ちていった――。

 


 

 

こんなにぐっすり眠って、爽快に目覚めたのは久しぶりだ

目が覚めると、淳弥はもう起きてたようで、隣でにっこりと微笑まれた。

「いとちゃん、おはよ」

うわ、寝顔見られてたんだ。恥ずかし。

「…おはようございます」

薄手の布団で顔を隠すようにして、夕希は挨拶を交わした。

 

 

「朝飯、シリアルくらいしかないけど、いい? それとも、どっか食べに行く?」

「峰さん、よく買ってますもんね。じゃあ、シリアルでいいです」

「良かった」

「キッチン借りていいなら、何か作りますけど」

「えー、材料あるかな。適当に見ていいよお」

顔を洗い、軽くメイクをして、夕希はキッチンに立った。淳弥が言うとおり、確かにろくな食材がない。使えそうなのは卵くらいか。…と見ていたら、チーズとハムも発見したので、オムレツを作ることにした。

フライパン、フライ返し。泡だて器まで。冷蔵庫の貧弱さとは裏腹に、キッチン道具は揃ってる。

(…しないだけで、料理が出来ないわけではないのかな)

ステンレスのボールに卵を溶きながら、夕希は勝手な推測を始める。淳弥は隣に立って、サラダボウルにシリアルを流し入れてた。

(なんか、新婚さんみたい)

そういえば、前の彼氏とは一緒にキッチンに立ったりしなかった。何気ないことが嬉しいのも、恋の始まりの特徴かもしれない。

 

「いとちゃん、これ牛乳掛ける?」

「え…はい」

「俺、掛けない派」

しなしなとさくさくはよく聞くが、全く掛けない人は初めて聞いた。夕希は淳弥の持ってるシリアルの袋をまじまじと見てしまう。

「何も掛けないで美味しいですか?」

「うん、美味しいよ。小腹が空いた時に、袋からスプーンですくってばりぼり食べちゃうからさ、よく怒られるんだよね」

「怒られる、って…峰さん、大人なのにオカシイ」

確かに淳弥の行動は行儀が悪いが、背も高くがっちりした体型の淳弥が、怒られてるところを想像したら、夕希はふと笑いがこみ上げてきた。

「え、あ~。そ、そう? うん。大人なのにね、俺、ダメだよね。でも、上手いんだよ?」

そう言うと、淳弥はスプーンに一匙掬って、夕希の口元に運ぶ。

これ、食べてってこと? フライパンに卵を丸めてた夕希は顔だけをスプーンに近づけて、ぱくっとした。

「…美味し」

「でしょ?」

淳弥はまるで子どもみたいに得意気に笑う。

 

シリアルと夕希の作ったオムレツとコーヒー。シンプルな朝食でも、ふたりで、しかも好きな人と食べる朝ごはんは、満足度が違う。

昨夜からの急開に戸惑いつつも、夕希は幸せを噛みしめるように、ドライフルーツを噛みしめる。

「ねえ、いとちゃん」

「はい」

「夕希ちゃんって呼んでもイイ?」

咄嗟に呼ばれて、夕希はわかりやすく固まった。

「俺のこともジュンとか淳弥でいいからさ」

「…は、はい」

「ジュンって呼んでみて」

「じゅ、んじゅん?」

「…なんか、場末のスナックみたい」

「そう言われましても~」

「あと、お店じゃないから、敬語も要らないからね、ね? 夕希ちゃん」

「は…じゃない、う、うんっ」

「あはは、可愛い~、夕希ちゃん」

からかうように笑って、淳弥はテーブル越しに身を乗り出すと、ちゅっと夕希の唇に触れる。

「…っ、淳さん?」

「ま、淳さんでもいっかあ」

よく出来ました。淳弥は更に顔を綻ばせる。

「今日さあ、夜はお仕事ないんだっけ」

「…うん」

「じゃ。どっかで飯でも一緒に食べない?」

「えっ」

「いや?」

「と、とんでもない」

「じゃあ、終わったらラインして。どっかで落ち会お?」

「了解です」

一緒に朝ごはんを食べて、「行ってらっしゃい」と淳弥の笑顔とキスに見送られて、夕希は淳弥のアパートを出た。

 

坂の入り口からはいつもと同じ道だ。けど、気持ちが違うだけでこうも景色は違って見えるものなのか。登り坂だって、今の夕希には楽勝だ。

 

今が幸せの絶頂なのだと、夕希は知らずにいた。

 

 



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