夕希side ♯16



迷いつつ、夕希はとりあえず、手紙の住所を手帳に書き写した。なにか、調べられるかもしれない。

 

その日は夕版を一緒に食べて、夕希は泊まらずに帰ることにした。

「帰っちゃうの?」

淳弥は物足りなさそうに言って、夕希の身体を抱き寄せる。淳弥の匂いと温度に包まれると、ぐらっと気持ちが揺れる。流されてしまいたくなる。

 

「淳さん…」

「ん?」

「私に隠してること、ないですか?」

遠い漠然とした質問を投げかける。淳弥は一瞬だけ、目を見開いたけれど、すぐに何のことかわからない、とでも言うように小首を傾げた。

「ないよ、何にも」

「…ホントですか?」

「夕希ちゃんは何か心配なこと、あるの?」

 

『あります。手紙の中に入ってた写真は、淳さんの家族ですか? 昼間の電話、本当は奥さんからじゃないんですか?』

聞きたい言葉が喉まで出ては、押し返されてしまう。

 

このまま何も見なかったフリをして、淳の傍にいたい気持ちと。

真実を知りたいという気持ち。

 

淳弥の瞳が細められて、ゆっくり唇が重ねられる。けれど、そのキスは夕希にはほろ苦い。

(好き、なのに)

「じゃあ…」

素っ気ない別れの挨拶をして、夕希は淳弥の家を後にした。

 

 

家に帰って、夕希は民法の教科書を引っ張りだして貪り読んだ。

そして次の日、夕希は法科院の教室に入ると、琢朗の姿を見つけて、その隣に座った。

ヘッドホンをしてた琢朗は驚いた顔をして、夕希の方に顔を向けた。

 

「…どしたの、糸井さん」

「聞きたいことがあるの、上條くん」

「何?」

琢朗はヘッドホンを外すと畳んで、リュックに入れた。

「たとえば、だよ? 付き合ってた人に妻子があったとして、それを知らなかったら、少なくとも女性の側の過失はないよね」

夕希の例え話に、琢朗の瞳の光が鋭くなる。

「…ん、まあそうなるよね」

「でも。知らなかったことの証明って、どうやって出来るのかな」

「まあ、男の側の証言とか、やりとりしたメールとか会ってた状況とか」

「でも。現実に知らないってこと、ありえるのかな。男の人は、隠し通せるものなのかな」

「家庭がありながら、他の女に目が行く不誠実な男の心理や行動原理なんて、俺にはわからない」

不誠実。そうだ。彼が騙してるのは、夕希だけじゃない。(恐らく)今は別居中の妻をも、だ。

「私、思うの。そういう人はみんな知らなかったじゃなくて、知ろうとしてなかっただけじゃないか、って」

彼の怪しい行動には目を閉じて、嘘には耳を塞ぐ。敢えて、都合の悪い現実は直視しないで、彼の作り出した嘘の世界にいれば、ずっと彼の傍にいられる――罪に堕ちないで、すむ…。

「でもそれじゃ、ダメだよね…」

夕希のつぶやきに、琢朗はますます怪訝な顔になった。

「糸井さん、今、誰の立場で喋ってる…? 法律家としての意見じゃないよね、それ」

琢朗にずばっと指摘されて、夕希は言葉に詰まって下唇を噛んだ。幸か不幸か始業のチャイムが鳴って、担当の教授が教室に入ってくる。

勢い、琢朗も黙らざるを得なくなる。それがもどかしかったのか、手にしてたボールペンで、琢朗はレポート用紙を開き、枠外に殴り書きをした。

 

――あとで、徹底討論な。逃げんなよ

右肩上がりの文字が、夕希の目に飛び込んでくる。夕希を追い詰めるような文面なのに、琢朗の生真面目さと優しさが伝わる。

夕希はそれに、◯だけつけて返した。

 

 

講義と講義の間の休み時間。

夕希は中庭に琢朗を誘い出した。昼間は賑わってるキャンパスも、夜間だと人も少なだ。花壇に背を向けて、配置されたペンチに腰掛けて。

「で? さっきの続きは?」

琢朗は性急に夕希に話を促す。

「…うん」

どうしよう。この期に及んで迷ってる。何処まで話すべきか。夕希の目線は宙を彷徨う。

でも、冷静な意見が欲しい。今の自分は淳弥に溺れ過ぎてて、客観的な判断も俯瞰的な視点も失ってる。

 

「こういう時、上條くんだったら、どうする?」

前置きをしてから、淳弥との馴れ初めを話し始めた。

 

 

「言っておくけど、恋愛相談的な答えは期待しないでね」

憮然とした面持ちで、夕希の話を聞いていた琢朗は、夕希が口を閉ざすと、待ってましたとばかりに切り出した。

「この間の人だよね」

「うん」

「まずは、本当に彼が既婚者かどうか、確かめないとダメだよね。俺だったら、本人に直接聞いて反応窺うかな。勿論、会話は全部ボイレコ録って」

「……」

「まあ、多分本当のことなんて言わないだろうけど、そしたら手紙の住所を訪ねる。会社に妻と偽って電話を掛ける。

「本当に結婚してるんだったら、糸井さんは彼に慰謝料だって請求出来るよ?」

「…そ、そんなことは」

望んでない。

「でもまだ、確実にそうと決まったわけじゃ…」

だって自宅にだって何度も行ってる。淳さんは結婚指輪もしてない。手紙は姉(か妹)と姪っこからかもしれない。

夕希の煮え切らない態度に腹が立ったのだろう、琢朗は不快げに眉を歪めた。

「うん、だからはっきりさせたいんじゃないの? ねえ、まさかと思うけど、このまま知らぬ存ぜぬで、関係続けるつもりじゃないよね」

夕希の心の奥底の願望を見透かされた。

だって、彼からは妻の話も子どもの話も、一言も出ていない。好きだよ、って言ってくれてる。

「わ、私は好きな人、信じたい…っ」

「俺、言ったよね。冷静になれないやつは、恋も弁護もうまくいかないよ、って。今の糸井さんは、都合の悪い事実から目を背けてるだけじゃん。とことんまで調べて、独身だってわかったら安心して付き合えるじゃん。それをしないのは、何処かで彼を信じてないからじゃないの?」

「そんな上條くんみたいに、さくさく割り切れないよ」

「で? もし、妻子持ちだったら? 法のエキスパート目指す奴が、法を侵すのかよ」

 



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