夕希side ♯17



目をつぶったまま逃げて逃げ続けて、でもその行き着く先に目的地なんてない。

琢朗の言葉は夕希の胸を深く深く抉った。




(奥さんも私も騙して平気…? 淳さんはそんな人じゃない)


「…わかった。本人に聞いてみる」

今日は淳弥と会う約束はしていない。けれど、夕希は淳弥の家に行ってみることにした。

「俺も行くよ」

何故か、琢朗までついてくると言う。

「? どうして?」

「乗りかかった船。っていうか糸井さん、絶対うまく言いくるめられそうだから」

失礼なことを、自信満々に琢朗は言い放った。

「余計なお世話なんですけど」

「糸井さんのためにすることじゃないから」

「それってどういう…?」

夕希が首をかしげると、琢朗は、はああっと大げさにため息をつく。こいつ、ばかだろ…と目が言ってる。

「…糸井さんさあ、弁護士向いてないんじゃない? 俺はいいけどさ、クライアントの気持ち汲み取れなかったら絶望的だよ?」

「…な、何それ、ひどい」

上條くんの気持ちがわからなかったくらいで、どうしてそこまで言われなきゃいけないのか。

夕希は憤慨しても、琢朗はこれ以上その話題に触れるつもりはないらしい。夕希の隣を当たり前みたいに歩く琢朗に、夕希は重ねて『来ないで』とは言えなかった。



「糸井さんて、この沿線に住んでるんだ」

最寄りの駅で、自動改札を抜けた時、琢朗が言った。

「…うん」

「俺ももうふたつ先の駅」

そう言って琢朗は定期を見せる。

「その割に駅や電車で会ったことないね」

「私、朝早いし、夜も遅いから」

早足で夕希はいつもの坂を下りていく。横目に勤務先のスーパーが見えた。夕希の出勤日じゃない時は、淳弥も店に来ないらしい。

『わっかりやすよねえ』と高田にからかわれたのは、先週の話だ。些細な行動に見え隠れする淳弥の気持ちを信じてはいけないのだろうか。

(手だって、結婚指輪してるのなんて見たことないし)


淳弥の言葉と夕希と過ごした時間が、裏切りの上に成り立ってるものだなんて、思いたくない。



坂を降りきると、国道が左右に伸びてる。淳弥の家に向かう右に、夕希は進路を取った。

見なれたアパートの外壁が見えてくる。けれど、普段はそこにないものを見つけて、夕希の足は無意識に止まった。

広島ナンバーの白いミニバン。そして女の人がリアのドアを開けたまま、車の脇に立ってる。

建物の上層に向けられた視線は、誰かを待ってるようだ。

背中半分を覆う長い髪。夕希の位置からは、横顔しか見えないが、それでも目蓋の裏に鮮明に焼き付けた顔は、忘れたくても忘れられない。

女の子と一緒に写真に映ってた女性だ。


(麻衣香、さん…?)


「淳くん、まだ~?」

親しげに淳弥のことを呼ぶ声に。

「あー、今行く」

淳弥は気安く呼応する。

そして、淳弥はスーツケースを抱えて、階段を降り、車にそれを積み込んだ。

運転席側に立ってた女性を、淳弥は助手席の方に促して、自分が運転席に乗り込む。夕希の存在には、全く気づかないまま、白い車は駐車場を走り去ってしまう。



夕希には。淳弥の名を呼ぶことも、車を追っかけることも出来なかった。



今、眼前で起きた出来事は、まるでスクリーン越しに見てるかのような現実感のなさで、足は駐車場の砂利道を踏みしめたまんま、一歩も動けなかった。




どれくらい立ち尽くしてたのだろう。



「…さん、糸井さん」

荒々しく名前を呼ばれて、夕希は漸く声の方を振り返った。

既に何度も呼んでいたのか、琢朗が苦虫を噛み潰した顔で、立ってた。

「…今の女の人、知ってる?」

夕希は曖昧に頷く。知ってるといえば、知ってるし、知らないといえば知らない。峰麻衣香さん。淳弥に手紙を出した本人だろうとは思う。

けれど、彼女と淳弥の関係性は――この期に及んでまだ不明瞭だと言えるのだろうか。

広島から家まで来ていて、淳弥の大きな荷物ごと走り去った。事実を鑑みれば…。


「奥さん、なのかな…?」

家庭のある人だったのかな。

いっつも深夜にお弁当やらお惣菜買ってて、朝ごはんはシリアルで、部屋はとっちらかっていて、いつ行っても女の人の影なんてなくって。

なのに…?


気づかなかった夕希が悪いのか、気づかせなかった淳弥が狡猾なのか。

淳弥の行動のひとつひとつを思い浮かべながら、瞼を閉じたら、自然に涙が押し出された。

知りたくなかった、こんな形で。



涙を拭った手を降ろす前に、がしっと掴まれた。

驚いてる夕希に、琢朗は更に突拍子もない提案を持ちかけた。

「…追っかけよう」





「へ?」

夕希が琢朗の言葉の意味を咀嚼してる間に、琢朗はスマホを取り出して、なにか調べ始める。

「…住所、わかるんだよね」

「え、あ、うん。手紙、あるから」

「じゃあ、行こうよ。元々直談判するつもりだったじゃん」

「行くって何処に…」

「決まってるだろ、あいつの家だよ」

淳弥の行動に打ちひしがれる暇も与えてくれない。琢朗の変貌ぶりに、夕希は若干引き気味になってしまう。

「い、行ってどうするの…?」

行ったところで、絶対に夕希の望むような展開にはなりえない。辛い現実を目の当たりにして帰ってくるだけではないか。

それならば、ほぼ真っ黒に塗りつぶされたキャンバスの、片隅の白い部分を守りたいと考えるのは…卑怯なのだろうか。


夕希はまだ何処かで淳弥を信じてる。さっきの女性は姉か、妹だよ、って淳弥が言ってくれるのを期待してる。

「…いいっ」

琢朗の手に掴まれたままだった右手を、ぱっと払いのけた。

「淳さんが戻ってきたら、私ひとりで聞いてみる」

早くひとりになりたかった。


ひとりで、もう一度淳弥のことを考え直したい。それでもきっと、夕希の出した結論に、変わりはないのだろうと思うけれど。


(別れたくない)


真実を知るのが、こんなに怖いことだなんて、夕希は知らなかった。




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