夕希side ♯18


琢朗との間に距離を開け、夕希は踵を返す。

「上條くん、ありがと。もう…平気だから」

彼に背中を向けたまま、夕希は虚勢を張った。恐らく正義感に燃え、夕希への怒りに満ちてるだろう琢朗と、目を合わせる勇気は持てなかった。

(何処まで卑怯で、何処まで弱いんだろ…私)

自分で自分に呆れるけれど、どうしようもない。

一歩、また一歩と、ゆっくり琢朗から遠ざかる。

歩調を早め、琢朗から一気に距離を開けようとした刹那、背中から抱きつかれて、夕希の足はまた止まってしまう。

 

「……っ」

背中に琢朗の胸板が張り付いて、肩と腰に琢朗の腕が回される。何で、どうして急にこんなこと。

「離して…」

「やだ。俺に軽蔑させないでよ、糸井さんのこと」

 

淳弥のことが理解出来ない。けれど、琢朗の行動も夕希には意味不明過ぎる。こんなことを言われたりされたりする関係じゃ、なかったはずだ。

 

 

(どうして男の人って…)

好きだって言えば、女は尻尾振って喜んで、何でも言うこと聞くと思っての?

足元を見られたみたいで、悔しさだけがこみ上げた。

「離して」

夕希はもう一度琢朗に言う。今度は、もうちょっと強い口調で。

琢朗は今度は言われた通りに、夕希から離れた。すっと琢朗の熱と匂いが遠ざかって、夕希を湿気混じりの重たい夜の空気が包む。

「勝手に軽蔑でも何でもすればいいじゃん。上條くんにどう思われても、私は構わないもん」

夕希が言い切ると、琢朗は悲しそうに口角だけ上げる笑顔を作った。

この間と、今日と。流石に琢朗の自分への慕情が汲み取れない夕希ではない。けれど、受け取る余裕なんてない、何処にも。

「…糸井さん」

静かに琢朗が口を開く。夕希を責め立てるのかと身構えた夕希に琢朗は意外なことを話しだした。

「うちの親父も不倫してたんだよね。同じ病院のナースと」

息を呑んだ夕希に気づいて、琢朗は「ごめんね、こんな話」と小さく謝る。でも、まだ琢朗の話は終わらなかった。

「家族にバレてもやめないんだから、すげーいい根性だよね、親父も相手の女も。そんな男捨てりゃいいのに、おふくろは『別れる』とは最後まで言わなかった」

「…最後?」

「3年前に死んだんだ。ばかみたいだろ? 我慢するだけしてさ。あんなしょうもない男にすがりついて…勝手な言い分だけど。俺、糸井さんにはそんな愚かしいことしてほしくない」

琢朗の話は夕希にも衝撃だった。

 

妻側の痛みを、苦しみを琢朗は間近で見てきてる。だとすれば、琢朗は夕希のしていることも許せないはずだ。それなのに。

 

「行こうよ、広島。夜行バスならまだ間に合う」

 

まるで野球観戦でもするみたいな言い方で、琢朗は夕希を誘う。

「俺も行くから」

琢朗の両手が、優しく夕希の両手を握る。

 

また夕希は泣いていた。涙でぐちゃぐちゃの顔を隠すことも出来ずに、夕希は往生際悪く、首を横に振る。

 

もう、ここまで来ちゃったら、どんなにみっともないとこ見られても、どうでも良かった。

 

会いたい、会いたくない。

自分でもどうするべきかわからない。

 

 

「…行こうよ」

駄々っ子みたいな夕希をあやすように、琢朗はもう一度同じ誘いを繰り返す。

 

 

琢朗に引っ張られるままに、夕希はもう一度駅に戻って、上り電車で東京に向かう。東京駅から出る夜行バスにはぎりぎり間に合った。

 

 

「コーヒー飲む?」

これから車内で眠りにつこうって言うのに、何故か琢朗はバスターミナルの脇のコンビニで買ってきたコーヒーを夕希に渡す。

「……」

夕希は微妙な顔をしながら、紙コップを受け取った。欲しかったわけじゃない。両手に紙コップはバスに乗るのに、不便だろうと思ったからだ。

 

何もかもが不思議でしょうがない。どうして、こんなことになったんだろう。少なくとも、夕希は一度も「行く」とは言ってないはずなのに、気が付くと琢朗と共にこんなところにいた。

長距離用の車高の高い大きなバスに乗り込む。

当たり前だけど、琢朗とは並びの席で、夕希は窓側に座った。暗い窓に自分のひどい顔が映り込んだ。

(こんな顔で、淳さんに会いに行くの?)

「どうせ眠れないでしょ? 飲みなよ」

「…ありがと」

夕希が口をつけると、琢朗も安心したように、自分の分に口をつける。

「にがっ」

夜の底みたいな色の飲み物を、初めて口にしたような感想を琢朗は言う。

「…嫌いなの?」

「嫌いじゃないよ? 缶コーヒーとドリンクバーのカフェオレは飲める」

言い張る琢朗が可笑しくて、夕希はぷっと吹き出した。

 

「それ、違うじゃん」

「おんなじだよ。ミルクの含有率が違うだけだろ?」

「そうだけど…これ、あげるよ」

と、夕希は自分の分のミルクと砂糖も琢朗に渡す。「いいよ」と一旦は遠慮しながらも、琢朗は結局夕希の分も、コーヒーに投入していた。

 

 

 

バスは静かに夜の街を走り出す。最初の頃はきらきらしてたネオンや、前を走る車のテールランプや対向車のライトが眩しいくらいに光っていたが、次第に建物も車も少なくなり、車窓は夜の闇に塗りつぶされる。

 

 

淳弥の車はもう、広島に着いたのだろうか。

 

そんなことを考えながら、窓の外を見ているうちにいつしか眠ってしまっていたらしい。

 

「糸井さん」

琢朗に起こされるまで、夕希は全く無意識だった。はっとなって上体を起こすと、肩に毛布まで掛けられてる。これも、琢朗がやってくれたのだろうか…。

(彼氏でもない人に、寝顔見られた)

広島の駅で電車に乗り換えて、呉の街に向かう。初めて降りた街は海の香りに鉄と油の匂いが混ざった風が吹いていた。

 

 


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