♯20


 

「駅まで送るって言ってきた」

一旦自宅に戻った淳弥は、車の鍵を握りしめてた。

駅とは反対方面の海沿いの駐車場に淳弥は車を停める。シートを斜めに倒して、深く背中をもたれさせて淳弥は尋ねる。

 

「いつから、疑ってたの?」

「手紙…見ちゃって」

「ああ。だから、家もわかったのか」

失敗した、と言いたげに淳弥は髪をくしゃくしゃっとする。少し捨鉢なその態度は、普段の柔和で優しい淳弥らしからぬ態度だ。

「峰麻衣香さんて…淳さんの奥様ですよね? 結衣ちゃんはふたりの間のお子さん…間違いないですよね?」

夕希の事務的な問いかけに、淳弥は無言で頷いた。

「袋からスプーンでシリアル食べて、淳さん怒る人って…奥様のことですか?」

いつだったかの何気ない会話を夕希は思い出す。こうなってしまったら、あれもこれも。夕希には疑わしいいことばかりだ。

「彼女はしっかりしてるからね。仕事をしてるのに、家事も完璧。家は、いっつも綺麗だし、料理もうまい」

「そんな理想的な奥様がいるのに、どうして…っ」

どうして私なんか。

泣きながら拳を握って、夕希は淳弥の胸を叩く。淳弥は夕希の殴るに任せていた。夕希のパンチなど、淳弥にはさほどダメージもないのだろう。

 

右左右左右。5回も叩いたところで、夕希の心が折れて、そのまま崩れ落ちる。自分の胸に倒れこむような形になった夕希を淳弥は肩を抱いて起こした。

初めて、今日、淳弥と視線が絡みあった。けれど、ずっと困ったような顔をしてるのは、変わりない。

ふっと大きく息を吐き出して、淳弥は重たそうな口を開いた。

 

「…麻衣は妻としては申し分ないけれど…。女性として愛せるか、って言ったら、ちょっと違うんだ。それに単身赴任で寂しかったから、かな? 夕希ちゃんといる時はこっちの家族のことなんて忘れてた。パラレルワールドみたいに、東京と広島。ふたり俺がいればいいのに…って、何度も何度も思ったよ」

身勝手な意見を淳弥は滔々と述べる。これが彼の本心だなんて思いたくない。けれど、それを明かす術なんて夕希にはないのだ。彼に妻子がいたことだって気づかなかったように。

 

「…日本の法律は妻以外に恋人を持つことは禁じてます。生涯、奥さんを愛して守っていくのが、いい男の人だと私も思います」

「そうだね。俺はずるくて弱い。サイテーの人間だね。…けど、夕希ちゃんのこと、本気で好きだったよ」

 

もう会わないと決めてるだろう女に、本気だったなんて言う。優しくて、ずるいこの人が、夕希はやっぱり好きだ。助けてくれたことも、一緒に眠ったことも、忘れたくない。

 

 

忘れたくないけれど、この人を独り占めすることは出来ないのだ…。

 

 

「…さようなら…」

 

もう、会わない。

 

車から降りると、近くに居た琢朗が鬼の形相で、淳弥を睨みつけてた。

 

「俺が、弁護士バッチ持ってたら、絶対、あんたからふんだくれるだけ、慰謝料取ってやるのに」

剥き出しの敵意を、淳弥はさらりと受け流した。

「…夕希ちゃんが望むなら、俺に出来ることはするよ。ただし、妻にわからないようにしてもらいたい」

慰謝料。淳弥に言われて、夕希は首を横に振る。淳弥との恋をお金で精算してしまうのは嫌だ。

 

「気が変わったら連絡してくれていいよ。ただし、妻にはわからないようにして欲しい」

「あんた…この期に及んでまだ、バレたくない、とか言ってんのかよ」

琢朗が淳弥に掴み掛かる。

「そうだよ。妻に知られるのは困る」

「だったら、学生に手なんか出してるんじゃねえよ」

「これは俺と夕希ちゃんの問題だから」

琢朗の介入を拒んで、淳弥はもう一度夕希を見た。瀬戸内の穏やかな海に光る朝日が眩しい。この海を、こんな形で見たくなかった。

 

「ごめんね、夕希ちゃん」

「もう…お店にも来ないでくださいね」

「あそこのお惣菜美味しかったのに、残念」

「…自業自得です。私、引っ越すので、それまで我慢してください」

「司法試験頑張って。受かること、願ってるね」

「…はい」

 

夕希がペコリと頭を下げる。顔をあげたら、淳弥の背中が涙で滲んでた。

淳弥の車がエンジン音をふかして、遠ざかっていくと、抑えてた感情も涙も抑えきれなくなった。

 

 

「……っ」

その場にしゃがみこんで、嗚咽を漏らす。

どうすれば良かったんだろう。何処で間違っちゃったんだろう。

 

ただひとつ言えるのは、自分は淳弥の『いちばん』ではなかったってことだ――

 

 

 

「糸井さん」

 

夕希の哀しみに寄り添うように、琢朗の手が夕希の肩に掛けられる。

 

「せっかく来たんだからさ、どっか見てこうぜ?」

 

夕希の気持ちを浮上させるように琢朗が言う。

しみじみと琢朗のお節介に感謝して、またぎゅっと瞳を閉じた。こんな風にひと目も気にせず、泣きじゃくったのっていつ以来だったろう。

でも近くにあったのは、ヤマトミュージアムという戦艦ヤマトの史料館と、てつのくじら館という自衛隊の潜水艦を展示してあるもの。

「更に海の底深く沈めってこと?」

「そういうわけじゃ…」

 

んじゃ、お好み焼きでも食ってくか。そう言って、戻った広島駅の中のお店で、お好み焼きを食べて、帰ってきた。

 

 

 

 

 

夕希が願った通り、淳弥は店に来なくなった。朝の坂道。自転車で追い抜いて行くサラリーマンの集団の群れの中にも、淳弥はいない。

寂しいというより、ほっとした気持ちが大きい。淳弥の自宅からは、800キロも離れた距離。会ってしまえば、またどんな風に心が揺らいでしまうか自信がない。

 

淳弥の記憶なんて塗り替えてしまう勢いで、必死に法律の勉強をした。軌道が戻っただけだ。そう、思えばいい。

「糸井サンさあ。最近、また目が血走ってるよ?」

常に六法のどれかを手にしてる夕希を琢朗はそうやってからかう。

「…上條くんには関係ない」

「司法試験終わったら、デートくらい誘いたいんですけど」

「終わらないと考えられない、今、そんな余裕ない」

 

淳弥のつけた傷は、少しずつ、けれど、確実に小さくなっていく。広島から戻ってひとつきが経った頃、夕希の身体に異変が起き始めていた。

 

生理が3週間以上遅れてるのだ。精神的ダメージを受けたせい…と軽く考え、放置していたのだが、流石におかしい。

 

勇気を振り絞って薬局で検査薬を買って、トイレに駆け込む。夕希の手にしたスティックは、検査時間の5分を待つ間もなく、赤いラインが明瞭に刻まれた。

 

(…妊娠…?)

 

 

全身から汗が拭き出て、震えが止まらなくなる。くらっと目眩がして、夕希はその場に膝から崩折れた。

 

 

                               いちばんになりたい 夕希side 完

 


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