最終章 ♯11


 

「…淳、さん…?」

 

聞き間違えるわけがない。けれど、どうして淳弥が夕希のスマホに? 新しいナンバーだって、教えていないのに。

この状況が信じられなくて、夕希は覚束ない声で、懐かしい名を呼んだ。

 

「…入籍、するんだってね」

「はい…」

「ちょっと、会えないかな」

 

と、淳弥は琢朗のマンションから程近い公園を指定する。

会いたかった。もう、会いたくなかった。夕希の心は、大きく揺れ動くのに、足は真っ直ぐに淳弥の待っているだろう場所に向かう。

春の夕暮れが、公園全体を茜色に染め上げる。もう子どもたちの姿はなくて、公園のあちこちに据えられた遊具は、鉄の塊となってる。

(…淳さん、何処だろ…)

夕希が見回すと、奥のベンチに座っていた淳弥が立ち上がって、夕希の前にやってきた。

 

「久しぶり」

穏やかな話し方も、笑顔も、淳弥は以前と変わっていない。夕希は自分の変化を恥じて俯いてしまう。下を見ても、つま先ではなく、せり出たお腹が視界に入る。

 

「お腹、大きくなったね」

「は、はい…」

「来月、だっけ、生まれるの」

「そうです。あの、淳さん…どうして…」

「え?」

「どうして、私の連絡先…」

「ああ」

と淳弥は頷いてから、元いたベンチに夕希を促した。ベンチに腰掛けてから、淳弥は切り出す。

 

「上條くんから、連絡貰ったんだ」

「上條くんから?」

「うん、そう。糸井さんと結婚して、その子は俺達の戸籍に入れるけどいい?って。多分、彼は後から俺にごちゃごちゃ言ってきてほしくなかったんだろうね」

 

フェアで、合理的なところ、すごく琢朗らしい。感心すると同時に、夕希は心の何処かで一抹の寂しさを覚えた。

 

(淳さんが、今日、私に会いたい、って言ってきたのは…)

 

「お腹の子の父親になれなくて、ごめんね、夕希ちゃん」

 

淳弥の表情と態度から、彼の決断は予想がついていたのに。否、とっくに諦めていたのに。それでも、言葉ではっきり示されると、ぽろっと涙がこぼれた。

 

「…ご、ごめんなさ…」

「いや、謝るの俺の方だから。傷付けて、嫌な思いばっかりさせてゴメン。夕希ちゃんが、俺の子ども生んでくれるの、すごく嬉しい。なのに、俺は――守ってあげられなくて、ごめん」

最後に夕希を呼び出して、謝罪の言葉を連ねる淳弥が誠実なのか、不誠実なのか、夕希にはわからない。けれど――その優しさとずるさが、夕希の好きになった淳弥なのだ。

 

「夏に――夕希ちゃんの実家の清水、行ったでしょ? あのあと、麻衣香ともう一度、話をしたんだ。俺は、離婚したいって言って、麻衣香は嫌だって、突っぱねて。そんなことしてるうちに、麻衣香が精神的に参っちゃって…。ある日、俺が帰って来たら、麻衣香がこっちに来てて――俺んちのバスルームで、手首切って倒れてた…」

「――!」

壮絶な話に、夕希は思わず息を呑む。

 

「狂言だよ、狂言。手首、3センチくらい切っただけ。――でも、麻衣香の狂気を周囲に知らしめるには十分な大きさだよね…」

実際、麻衣香の両親からは、烈火のごとくに責め立てられ、今度は、淳弥の方が参ってしまいそうになったと言う。

未だに麻衣香は心療内科に週に1度程通院していて、そんな状態の妻と離婚なんて出来るはずもない。

 

「いちばん好きな人とは、一緒にいられない。きっと、これが最初に俺が夕希ちゃんのこと、騙してたバツなんだろうね」

今度は、夕希の頬を一筋の涙が伝っていく。いちばん好きな人。淳弥の台詞は本当にずるい。

 

「…泣かないでよ、夕希ちゃん。上條くんとうまくやってるんでしょ?」

そうだった。最初に夕希を騙したのは、淳弥だけど最後に嘘を吐いたのは、夕希だ。

「…はい」

「良かった。俺、4月の異動で、また広島に戻ることになりそう。もう、多分この街には来ないかな」

本当の本当に「お別れ」なんだ。胸に迫る思いは沢山あるのに、言葉は何も出て来ない。

 

 

「元気でね」

そう言って、淳弥は立ち上がる。

「淳、さんも」

「赤ちゃん、無事に生まれること願ってるから」

 

そう淳弥に微笑まれた時、あるアイデアが夕希の胸を貫いた。

「あの」

「何?」

「…男の子なんです。この子。――淳さんが、名前つけてくれませんか?」

 

淳弥は一瞬少し嬉しそうに口元を緩める。ゆっくりと夕希のお腹に手が伸びた。

けれど、夕希に向かって伸びた手は、宙に留まり、淳弥は先程の笑顔から一転、すごく困った顔をした。

「ありがと、夕希ちゃん。でも、それはやっぱり出来ないよ」

「…私、誰にも言いません」

 

戸籍も家族構成も何もかも。この子が峰淳弥の子どもだっていう証は何もなくなってしまう。せめて、何か。淳弥が父親なんだという印が欲しかった。

けれど、淳弥は首を横に振る。

「だったら尚更。そういう秘密は持たない方がいい」

自分は妻に大して不実だったけれど、夕希はそうなってほしくない。きっと淳弥なりの背中の押し方なのだろう。

 

「会えて嬉しかったよ」

「……」

「夕希ちゃん。バイバイ」

 

夕希に背を向け、黄昏の人波に、淳弥は紛れていってしまう。滲んだ夕希の瞳は、淳弥の姿を最後まで追えなかった。

 

泣きはらした瞳で、夕希は琢朗のマンションに戻る。琢朗は先に帰ってきていた。

 

「――糸井さん…っ」

玄関先で夕希を出迎え、琢朗はちょっと驚いたようなホッとしたような顔を見せた。知ってるくせに。夕希が誰と会って、何をしてきたか。

 

「た、だいま…」

バツが悪くて、夕希は無理して笑ってみせる。

「おかえり」

そう言って、琢朗は夕希の身体をふわりと抱きしめた。夕希の髪を肩を抱くように回された腕があったかい。

「…帰って来なかったら、どうしようかと思った」

ポツリと漏れた言葉が琢朗の本音なのだろう。お膳立てしたのは自分なのに。だけど琢朗はいつもそうだ。夕希の気持の方を優先させてくれている。

「好き」とか「愛してる」なんて言葉より、夕希の胸に迫った。

 

「…ここが、私の家だって、上條くんが言ったんだよ」

だから、ここに帰ってきた――それは夕希の意思だ。

 

夕希は琢朗の背中に腕を回す。淳弥より細く、薄い背中を夕希はしっかりと抱きしめた。

 

 

 

 


                                  back

 

      next