最終章 ♯12


 

 

「…不備、ないよね」

ボールペンを置いて、夕希はその書類を隅から隅までじっと眺めた。

 

夫になる人、上條琢朗。妻になる人、糸井夕希。

 

何回見ても、変な感じ。でも、これからそれが当たり前になっていく。

 

 

「平気だと思うよ」

「なんか、上條くん軽い…っ」

自分の真剣さに比して、あっさりと言ってのけた琢朗に、夕希は言いがかりに近い文句をつける。

「慣れてるとか?」

「結婚詐欺師かよ、俺は」

「…ああ」

「納得すんな。この間、父さんの婚姻届けの保証人になったから、それでだよっ。ほら、出しに行こうぜ」

 

夕希の手を取って、琢朗は窓口に向かう。4月某日。大安でもなければ、記念日でもない。ごく普通の平日に、夕希と琢朗は婚姻届を提出し、法律上の夫婦になった。

 

「…実感沸かないね」

新たに取得した戸籍を見ても、イマイチピンと来ない。

「こういうのって、既成事実固めていって、実感深めるものなんじゃないの?」

「き、せい…って」

琢朗の言葉に、夕希は顔を赤らめる。

まだ琢朗とはキスしかしていない。そのキスも、あの夏の日に好きだと言われた時と、プロポーズされた時の2回だけだ。

「家族になってよ」って言われたけど、やっぱりやっぱりそういうのも込み? でも、私、妊婦だし、お腹おっきいし。

「…糸井さん?」

「しょ、初夜とか言われても、心の準備が…」

夕希が言うと、琢朗はぶばっと吹き出した。

「何言ってんの? 結婚式とか、指輪とか、俺はそういうイベントこなしてって、周りからも夫婦として扱われれば、そういう意識になるんじゃないの?って言いたかったんだけど」

「えっ」

 

自分で自分の妄想に絶句。琢朗とは全く別のベクトルに暴走した想像が恥ずかしい。

(でも、普通既成事実って言ったら…)

ぶつぶつと心の中で文句を呟いていたら、ふいに手を握られた。驚いて、隣の琢朗を見上げる。

「指輪、くらいは買いに行く?」

琢朗の左耳が紅く火照って、シルバーのピアスが、いつもより光って存在感を増して見えた。

 

 

ふたりで選んだのは、小さなジュエリーショップのシンプルなマリッジリング。夕希の方には、小粒のダイヤがアームに埋め込まれてる。今日の日付と互いのイニシャルを彫ってもらうことにしたので、受け取りは後日になった。

その足で、琢朗の父と芙美の住む新居に向かう。琢朗の父の病状は今は、小康状態で、治療や検査のために月に何日かは入院するものの、それ以外の日は自宅療養という形に落ち着いているらしい。

 

他の男の子どもを宿してる嫁なんて、夫側の親族によく思われるわけがないのに。琢朗の父は豪放だった。しきりに申し訳無さそうにする夕希に。

「気にすることはないさ、夕希さん。そんなことを言ったら、琢朗だって、本当に私の子どもかどうかなんて定かではないんだから。男って悲しい生き物だよ、なあ、琢朗」

そう笑い飛ばしてしまう。

「……」

「そうだな。俺も、寧ろその方が良かったと思うぜ」

「ばか息子」

「疑いを挟む余地なんてないくらい、琢朗さんと先生てそっくりよね」

芙美にくすくす笑われて、琢朗親子は押し黙る。

確かに似てると、夕希も思う。言わなくてもいいようなことを、わざわざ言っちゃうところとか。

思えば、琢朗の家も一度は壊れた「家族」なのだ。それが新たな妻を迎え、修復されつつある家庭に、今また自分という家族が加わる――。

自分のではない子どもを受け入れ、自分を愛してるわけではない女を妻にしようとする琢朗の行動は、突拍子もないと理解出来ないでいたのだが、琢朗の家族に会って、彼の大きさと孤独さが、夕希にも伝わってくる気がした。

 

 

「琢朗が貴女を困らせることがあったら、いつでも言ってきなさい」

そう言って、琢朗の父はにっこりと微笑む。

「そ、そんな上條くんは私を困らせるようなことは…」

慌てて否定すると、琢朗の父は意外そうに眉を上げた。

「まだ、上條くん、なんて呼ばれてるのか、琢朗」

「父さんには関係ないだろ、いーんだよ」

距離が縮まってないことを指摘されて、琢朗はムキになる。そういえば、琢朗も「糸井さん」と呼んでいる。糸井夕希という人間はもういなくなってしまったのに。

 

 

「琢朗…くん?」

「くんづけいらないよ。夕希ちゃん…はやだな、夕希でいい?」

夕希ちゃん。淳弥と同じ呼び方は、夕希も遠慮したい。

「うん、夕希、がいい」

父のマンションからの帰り道、ふたりで呼び名を考えて、たどたどしく呼び合った。

 

まだぎこちない会話、ふたつに分かれたままの影法師。それもしょうがない、人はすぐには変われない――僅かな歩みでも、少しずつ前に進んでいけば、きっとそれでいい。

 

 


                        

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