最終章 #1


 

 

いちばんになりたい。

願ったのは、それだけだったのに…。

 

 

 

 

 

夕希と琢朗がリビングに入ると、父と母、そして麻衣香が向かい合って、座っていた。
麻衣香の背筋はピンと伸び、逆に父たと母は、膝の上で両の拳を握りしめて、小さくなってる。

(どうしてここにこの人が…)

自宅まで、知られてる事実に慄く。彼女は何処まで知ってるんだろう。夕希の背中を冷たい汗が伝った。

 

「…夕希もそこに座りなさい。上條くん、だったか? 申し訳ないが、席を外して居て欲しい」

父に言われ、夕希がちらっと琢朗を見る。心細かった夕希の心情を汲みとったのだろう。琢朗は果敢だった。

「いえ。僕も事情は知ってますので」

そう言って、どかっと座り込む。麻衣香はやりにくそうに、一瞬だけ眉を歪ませた。けれど、すぐに姿勢を正し、切り出した。

 

「この度は主人がご迷惑をお掛けしまして

深々を頭を下げ、麻衣香の長い髪が彼女の頬に掛かる。

「夕希、この人の言ってるのは本当のことなのか? お前が彼女のご主人を付き合ってたと言うのは…」

父は否定して欲しそうだった。けれど、紛れも無い事実だ。

「お前がお腹の子の父親の名を明かさなかったのは、そのせいか」

夕希は小さく頷いてから、蚊の鳴くような声で言う。

「…ごめん、なさい…」

「この…っ」

娘に裏切られた思いになったのだろう、父は形相を変え、右手を振りかざす。

「待ってください!」

父の平手から、咄嗟に夕希を庇ったのは、琢朗だった。夕希の肩を抱いて、上体を覆うように庇うと、父もかざした手のひらを宙に留めざるを得なくなった。

 

「峰さんが既婚だって糸井さんは、知らなかったんです」

「私も峰からそう聞いています」

意外なほど冷静に麻衣香は言った。

「その真偽は峰と夕希さんしかご存じないでしょう…こちらとしては、学生さんに妊娠させてしまい、峰に非があるのはわかっておりますので、そのことについて、深く追求するつもりはありません」

はっきりと夫の非を認める麻衣香に、夕希の母はほうっと息をつく。慰謝料だとか、そんな話になっても仕方ないと思っていたのかもしれない。

(でも…)

夕希の心はざわついてしまう。それで終わる話とは思えないのだ。

(わざわざここまで来た意味は何なんだろう…)

 

「ここに500万円用意してきました」

 

と涼しい顔で麻衣香は帯のついたままの一万円札の束をテーブルに上に載せる。一同が驚き、その塊に目を瞠ったのを確かめてから、麻衣香は次の提案を切り出した。

 

 

「胎内の子に関しては、こちらでとやかく言うことではないと思うので、私からは何も申し上げません。峰は生まれたなら認知すると言ってました。けれど――そのあと、一切の親子関係を持たないと約束いただけないでしょうか」

 

まるでビジネスだ。麻衣香が顔色ひとつ変えずに言い放った言葉の残酷さに、夕希は息を飲んで絶句する。そんな約束したくない。しかも、淳弥本人から言われたならまだしも、本人不在の席で、妻からの要求なんて。

のむ必要はない。けれど、恐らく経済的に逼迫してるだろうと推察されていて、札束で頬を張る麻衣香のやり方に、不快感が半端ない。

 

 

父も母も何も言わない。彼女に噛みつくことが出来たのは、いちばんこの件から遠い存在の琢朗だった。

「養育費の前払いと手切れ金てことかよ…っ」

「いいえ。将来性のある有望なお嬢さんの未来を狂わせてしまったそのお詫びです。到底足りないでしょうが、どうぞ」

「受け取っちゃダメだよ、糸井さん」

「……」

夕希だって、受け取るつもりは毛頭ない。

 

 

無論夕希の両親も誰も手を伸ばさない。麻衣香には意外だったのか、彼女は困ったように一座を見回した。

 

「お約束いただけないんですか?」

「…約束なら、淳さんと交わしたいです」

「主人は優しいので、こういう場にいると、つい絆されてしまうんです。身内の恥を晒すようですが…初めてじゃないので。こんなこと」

恥だと言いながら、麻衣香は何処か勝ち誇ったように唇の両端を吊り上げた。

 

初めてじゃない? 私以外にも、淳さんの浮気相手はいたってこと? 麻衣香の言葉になんか、動揺したくないのに。

わなわなと震える手をぎゅっと握って、夕希は平静を保つ。

 

「じゃあ、今日ここに奥様がいらしてることを、淳さんもご存じなんですか?」

夕希の問いかけに、麻衣香は眉をピクリと上げた。まるで彼女の怒りの導火線が眉に乗り移ったみたいだった。その直後、彼女は豹変する。

 

「そんなこと貴女に関係ないでしょ? 答える義務なんて無いわ。流石に妻子ある男と付き合える女は図々しい」

「妻子あるのを黙って、学生と付き合う男だって、相当なものだと思いますよ。それにこれじゃ、正式な取引にならない。ご主人とよく相談の上、弁護士を通して話しをした方が、双方のためです。――前回の時に、そう学ばなかったんですか?」

麻衣香の怒りに、琢朗が痛切に皮肉を浴びせる。更に、怒りに震えるのかと危惧した眉は、だらしなく歪み、勝ち気そうな大きな瞳に、瞬く間に水泡が滲んだ。

居丈高な態度が一変して崩れ、まるで泣き出すのを我慢してる子どものような麻衣香に、夕希は驚いてしまう。広島で会った時には、堂々として、一分の隙さえないように見えたのに。

 

どうやら淳弥の名前が引き金になると、いち早く察した琢朗は、隣の夕希に尋ねる。

「糸井さん、峰さんの連絡先わかる?」

「…え」

以前に使っていたケータイはとっくに解約してしまった。淳弥からの連絡を一方的に遮断したかったからだ。でも、まだ捨てられずに取っておいてあるものもある。

初めて客と店員としてではなく言葉を交わした日に、淳弥から貰った名刺だ。

「…ある」

夕希のもたらした小さな情報を元に、琢朗はこの場で、淳弥に連絡を取ろうと、スマホを取り出す。

けれど、もの凄い勢いで、麻衣香は琢朗に掴みかかってきた。

 

 

「ダメっ、淳くんには連絡しないで!! お願いっ!!!」

 

琢朗のスマホを奪おうとして、躱されると、今度は麻衣香はテーブルの上の名刺を、

ビリビリと破り始める。半狂乱になったその姿を、夕希も琢朗も、見守るしか出来なかった。

 

 

 

 


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