最終章 ♯3


 

一度、何食わぬ顔をして、淳弥のアパートを訪れたことがある。相変わらず、生活能力の低い淳弥の家の冷蔵庫は、レトルトと冷凍食品ばかりだし、部屋も足の踏み場もないくらいだ。

 

「淳くん、こんなんで良くひとりでやってこうとか思ったね」

笑いながら、麻衣香は淳弥の脱ぎっぱなしのパジャマを洗濯機に放り込み、台所の食器を片付け、シンクも調理台も綺麗に洗う。

探偵会社の調査のことは、麻衣香からは触れないが、もし、ここにやって来る女がいるのなら、気づかせたかった。彼には、完璧な妻がいるのだから、あんたなんか必要じゃない――と。

「あーうん、今いろいろ便利なものあるからさ、なんとかなるんだよ」

淳弥はまるで小さな子どもみたいに、麻衣香の後を追っかけてくる。まるで、見られたくないものでもあるかのようだ。いや、きっとそうなのだろう、麻衣香に見られたくないものをいち早く隠すため、万一見つかってしまった時には、素早くフォローするため、淳弥は彼女の傍を離れないのだ。

不貞の弥縫策に忙しい夫の心理は読めてしまうのに、どうしたら彼の心をこちらに向かせればいいのかは、見当がつかない。

仕事のトラブルの方が、麻衣香にはよっぽど片付けやすい。

「淳くん」

「ん?」

背の高い淳弥の首に腕を回してくちづけると、淳弥の方から舌を絡めてきた。

とんぼ帰りの予定だったが、実家に連絡を入れ、結衣を預かってもらうことにし、麻衣香はその夜、淳弥のアパートに泊まった。

 

久しぶりにふたりだけの朝を迎える。麻衣香の作った朝食を、淳弥は美味しそうに食べ、「行って来ます」「行ってらっしゃい」のキスを交わしあって、夫を送り出した。

部屋をもう一度綺麗に片付けて、麻衣香は淳弥のアパートを出る。近距離にある実家も、情熱を傾けられる仕事も、何もかも捨てて、結衣とふたり、こちらで暮らす選択をすれば、淳弥の心はもう一度麻衣香の元に戻ってくるのだろうか。

(淳くんは寂しいだけだよね…)

着ていたシャツの胸元をつまんで、中を覗くと、昨夜淳弥に愛された痕が残ってる。車に乗り込む前に、ふと思いついたことがあって、麻衣香は徒歩で慣れない街を歩き始めた。

 

調査書に載っていた糸井夕希の住所は、驚く程近かった。土地勘のない麻衣香が、スマホの地図を見ながらでも、10分足らずでついてしまう。

(こんな近くに…)

何気なく、ポストを覗いてみる。何も入っていなかった。ちょっとしたイタズラ心が生まれる…手紙でも書いて、入れていってやろうか。あなたの付き合ってる人には、妻子がいます――って。

建物から少し離れ、カバンの中から筆記用具を探ろうとすると、別の男がやはり先程の麻衣香と同じように、夕希のポストを覗き込んでいた。

配達の者ではない。糸井夕希に同居者や家族はいなかったはずだ。麻衣香の導き出した結論は、彼が糸井夕希のストーカーなんじゃないかということだった。

「こんにちは~」と声を掛けると、大柄の身体は、大げさにビクンと震えた。後ろめたい気持の証だろう。

 

保険の調査員のフリをして、糸井夕希という女性に面会したいのだが、なかなか会えないでいる…。家にいる時間などを知らないか、と尋ねると、牟田は嬉々としていろんなことを話してくれた。

法科大学院に通いながら、アルバイトをいくつか掛け持ちしてるから、朝は早く帰りも遅いらしい。最近は、外泊もたまにしてるみたいだ、と牟田は腹ただしげに言う。

そして、自分は夕希ちゃんのストーカーじゃない。ただ、見守ってるだけなんだ、とも言う。

 

少し、頭の程度の軽い男のようだった。話す時の身振り手振りが大げさなのは、自分でも言葉では不十分だと感じてるからのようだ。確かに語彙力が小学生レベルだった。

(使えるかもしれない…)

そう思い、麻衣香は彼の連絡先を聞き出す。

淳弥が仕事から帰ってくるのを待たずに、麻衣香は呉に戻った。

 

どうやって淳弥の浮気をやめさせよう。麻衣香が全部知ってることを伝えてもいいし、牟田を煽って、夕希を襲わせてもいい。

しかし、麻衣香が動くより前に、夕希の方が動いたのだ。ある朝突然、自宅に夕希は同じような学生風の男の子と現れた。

 

夫はやはり、自分が既婚者だということをひた隠しにしていたらしい。

会社の事務の女の子だと言われ、糸井夕希は明らかにショックを受けていた。

 

夫はやはり、浮気相手よりも、自分を選んだのだ。夕希とのことは遊びだったのだ――麻衣香の心に余裕と優越感が生まれる。

 

どうやら淳弥は夕希と別れたらしかった。調査会社の追跡調査でも、牟田からの報告メールでも、ふたりが会ってる様子がないことに、麻衣香は安心していた。

これで、単身赴任が終わって、呉に戻ってきたら、淳弥は自分のところに戻ってきてくれる。そう、信じていたのに――麻衣香は恐ろしいことを知ってしまう。

 

糸井夕希が妊娠してると言うのだ。

夫の子どもを、他の女が身籠っている――妻として、こんなに屈辱的なことはない。悔しさと怒りで、何夜も眠れない夜が続く。

(…やっぱりダメだ、糸井夕希だけはこのままにしておけない)

――シンジャエバイイノニ。

そんなことばかり考えてしまう。心が、壊れていく。

 

麻衣香はもう一度、淳弥と夕希の住んでいる街に向かった。今度は、淳弥にも知らせずに。

 

 


                                  back

      next