最終章 ♯4


 

帽子に薄く度の入った眼鏡を掛け、軽く変装し、1日ピッタリ夕希の行動を監視する。夕希は特に麻衣香に気づいた風ではなかった。鈍いタイプなのかもしれない。神経が研ぎ澄まされ、人の心も行動も先んじて読んでしまう、麻衣香とは異なったタイプだ。

佳苗もどんくさかったし、元々淳弥はそういうおっとりした女の子の方が、安らげるのかもしれない。

けれど、今更、引くことは出来なかった。麻衣香を間違った行動に導くのは、愛情がさせるのか、プライドの問題なのか、もう判断出来ない。

 

牟田に連絡をし、麻衣香は夕希の妊娠のことを、、散々に焚き付けた。

短絡的な彼が、どういう行動を取るのか、十二分に推測して。しかし、ニュースの第一報を見て、麻衣香は心臓が止まりそうになった。

「…じゅん、くん…?」

担架で運ばれる映像を見て、思わず声を漏らしてしまう。続いて、被害者の名がテロップで写し出され、一緒にいた両親まで騒ぎ出す。

「淳くんじゃないか。あの女の子は誰だ? 彼女を庇ったって――」

父が立ち上がって激昂しているが、麻衣香にだって意味がわからない。

 

淳弥の気持も、自分の願いも、何もかもが闇の中だった。

 

 

 

 

「…峰さん」

低い落ち着いた声で、名を呼ばれ、麻衣香ははっと我に返った。麻衣香の穿いているスキニーパンツの上に、紙くずが散らかっている。名刺は、元あったテキストが読み取れないくらい、細かくちぎられていた。

 

ああ、そうだった…と、麻衣香はここが何処だったのかを思い出す。

上條と名乗った青年が、じいっと麻衣香を見つめる。

くるくるした茶髪に耳にふたつずつついてるシルバーのピアス。見た目の軽薄さとは真逆に、彼女に向けられる視線は、真摯さと誠実さを湛えている。彼は、夕希の何なのだろう。調査書にも、牟田の話にも出て来なかった。けれど、呉に糸井夕希が訪れた時も同行していたし、今もこうして場違いなのを歯牙にもかけず、この重苦しい場に同席している。夕希にとって、信頼の置ける人物なのだろう。

麻衣香の癇癪が収まったと見て、琢朗はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「――ご主人は、先ほどの峰さんとは全く逆のこと――奥様との離婚を望んでるのではないですか?」

 

悔しいが、その通りだった。

 

 

別れて、欲しいんだ」

 

病院に駆けつけた麻衣香は、淳弥からの最たる裏切りを受ける。

すぐには言葉も出なかった。淳弥は自分を選んだのではなかったのか。何故?と疑問ばかりが、麻衣香の脳裏を占め、彼女を苦しめる。

「な、に言ってんの? 何言っちゃってんの? 何で、あたしが淳くんから、別れつきつけられなきゃいけないの?」

夕希に子どもが出来たから…と、淳弥はこの裏切りの言い訳を始める。

だったら結衣と自分はどうなる。

 

妊娠を知っていたことも、牟田を焚き付けたことも暴露すると、淳弥はまるで鬼か妖怪でも見るような目で、麻衣香を見た。

「…麻衣は、おかしいよ…」

そうかもしれない。けれど、だとしたら狂わせたのは誰だと言うのだ。冷静な判断力を、思いやりの気持を、麻衣香から奪ったのは、淳弥ではないか。

 

 

退院後、療養のため、淳弥はいっとき、呉に戻ってきた。

けれど結衣の前では、夫婦を演じているけれど、ふたりきりになると、会話は殆どない。仮面夫婦、そんな言葉が嫌でも浮かぶ。

もうとっくに心が離れているのなら、このまま夫婦でいてもしょうがないではないか。諦観が麻衣香を支配する夜もあるし、絶対に別れたくない、と意地と執着がそれを上回る夜もある。

淳弥は糸井夕希とは連絡を取れていないようだった。

以前の淳弥のアパートの近くの家は引き払ってしまったらしく、スマホも解約したのか、着信拒否になっているのか、つながらないらしい。

今がチャンスだ、と麻衣香は思ったのだ。こんなことをしていたことがバレれば、また夫の心は一層遠のくに違いない。愚かしい行動だとわかっていて、敢えてその道を選んでしまう心情を、狂気だと言うのなら、淳弥の言うとおり、自分は狂っているのかもしれない。

 

 

淳弥より先に、糸井夕希の元に現れ、夫と別れてくれるように頼む。淳弥には、夕希は易易と示談金を受け取った、結局お金のが大事なんだと、そう言うつもりだった。

 

 

 

「夕希さんの方から、別れてくれれば、主人の目も覚めると思ったんです…」

 

「あんた、それはいけねえよ」

今まで置物のように、腕を組んで、座布団の上にどっかりと胡座をかいて座り込んでいた、夕希の父が徐ろに口を開いた。

ぞんざいで、乱暴な言葉使い。麻衣香はこれまで、初対面の人にあんた呼ばわりされた記憶なんてない。

「……」

失礼だと睨みつけると、夕希の父は大して悪びれもせずに、「あ、すまねえ。口が悪くていけないな」とつぶやいて、まだ更に暴言を続けた。

「俺には法律なんてかてーことはわかんないけどよ、奥さんが勝手にこんなことしちゃいけねえよ。離婚したくないなら、したくないって、ちゃんと話し合ったのか?」

自分は何をやっているのだろう。縁もゆかりもなかった街にやってきて、見知らぬ人に叱咤され、一言も返せない。惨めな思いを噛みしめて、麻衣香は短く言葉を返す。

「…いえ」

 

自分も、淳弥も。相手から逃げ続けてきた結果がこれなのかもしれない。

 

 

 


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