最終章 ♯5


 

馴染みの取引先の納品を終え、淳弥は営業車に戻って、運転席に腰を落とした。無造作な行動に、脇腹がチクリと痛む。事件からは1ヶ月余り。会社に復帰してからは、1週間。

こっちの仕事の同僚や上司には、通りすがりの男にやられたことになっている。事件の真相を知っているのは、ニュースを見て、慌てて電話をしてきてくれた伊藤だけだ。

 

彼には、これまでの行きがかり上もあるから、すべてを包み隠さずに話した。

「…そうか…」

非難も同情もできかねる、と言った複雑そうな声の相槌が、伊藤からは戻ってきた。

もう修復は無理かもしれない。と、淳弥が夕希との不倫話を打ち明けた時から、伊藤は思っていたのかもしれない。

 

車のシートに背中を預けて、軽く目を閉じた。入院中は殆ど動かなかったせいか、体力が落ちている。以前より、無理が効かない。休んでいた分を取り戻したいのに、なかなか現実は難しかった。

 

それでも、淳弥が熱心に仕事をするのは、夕希や麻衣香のことを忘れていたいからかもしれない。

「淳くん、もう…行っちゃうんだ。私となんて、いたくないよね」

呉から、東京に戻る日の朝、麻衣香は皮肉に笑ってみせた。寂しい、と素直に甘えてくるようなことは、元々なかった女だ。まして、淳弥が「別れたい」という要望を率直に口にしすぎたせいで、麻衣香との亀裂は決定的なものになってしまった。

麻衣香とは会話も殆どないまま、淳弥は逃げるように勤務地のある東京の方に戻ってきてしまったので、離婚の話も宙ぶらりんのままだ。

(このままじゃいけないよなあ…)

麻衣香に対しても、夕希に対しても。誠意なんてまるでない。それにしても、夕希は何処に行ってしまったのだろう。退院後もしつこくアパートを訪れてみたが、もぬけの殻だった。

 

「…夕希ちゃん…」

もう1回会いたい。そんな願いを込めて、彼女の名を呼んでみる。次の瞬間、背広のポケットに入れていて、スマホがぶるぶると震えて、淳弥は期待に胸をふくらませて、スマホを取った。

……

しかし、画面を見た瞬間、淳弥はがっかりする。ディスプレイのナンバーは、麻衣香のものだ。何なんだろう、こんな時に。

 

「もしもし」

訝りながら、スマホを耳に当てると、「峰さんですか?」聞こえてきたのは、あのムカつく青年の声だった。

がっかりだ。だが、落ち込むより前に、淳弥はその不自然さに気づく。どうして、麻衣香のスマホを彼が?

「…上條くんだったよね」

「はい」

「どうして君が…」

「麻衣香さん、今、ここに…糸井さんの実家にいるんです」

「なんだって? どうして…」

静岡だと言っていたっけ。夕希との何気ない他愛無い会話を、ちらっと思い出す。けれど、ほの甘い思い出に、淳弥は浸っている暇もない。

「麻衣香は何を…夕希ちゃん、夕希ちゃんは無事なのか?」

情けないくらい取り乱しながら、淳弥は琢朗に尋ねる。その慌てぶりをなんと思ったのか、「大丈夫です」と琢朗が答える声には、若干の笑い声が混じった。

……

 

実家なら、両親もいるのだろうし、琢朗も傍にいるのなら、麻衣香だって、そうそう無謀なことは出来ないだろう――そんな安心と、また彼女に向き合わなければならない鬱陶しさと、ふたつの気持がないまぜになって、淳弥は大きく息をついた。

 

「…麻衣香は何をしに来たんだ?」

「手切れ金を持って、峰さんと別れろ、って糸井さんに迫ってました」

「額は?」

「500万」

途方もない額に、またしてもため息が出る。何処で用立てた金なのだろう。森崎の時と同じ、自分に何も言わずに、勝手な行動をする麻衣香には、恐怖こそ感じるが、いっぺんの愛情も沸かない。

「…糸井さんは受け取らなかったですけどね。交渉不成立です」

「夕希ちゃんはそういう子だよ」

自分の力だけで頑張ってる。自分を大きく見せようともしないし、小さく閉じこもったりもしない。そこに惹かれた。

 

「…上條くん」

「はい」

「仕事が終わったら、そっちに行くって、麻衣香と糸井さんのご両親に伝えてくれる?」

「来てもらおうと思っていたので、僕の手間が省けました」

琢朗はしゃあしゃあとそんなことを言う。

夕希だと感傷的になりすぎるし、麻衣香だと怒りできっと話にならない。だから、彼が麻衣香のスマホを借りて、電話してきたのだろう。

スマホを背広にしまい、淳弥は今日いちばんの深い深い溜息をつく。

 

――もう、逃げられない。

 

麻衣香とも、夕希とも、しっかりと向き合って、思っていることを伝えないと。

 

 

定時に会社を出て、そのまま東京駅に向かう。新幹線を使えば、清水はすぐだった。夏の長い日が落ち、黒い海にポツポツと近くに外灯の灯りがともっている。港の近くの夕希の家は、すぐにわかった――広島ナンバーのプリウスが停まってる。

 それを見ただけで、重圧が一気に淳弥にのしかかる。

(ああ、もうやだな…)

飛び込みの営業なんかより、よっぽど気が重たい。逃げ出しそうになる心を、必死に鼓舞して、ドアに手を掛けた。

 

 

 

 

 


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