最終章 #6


 

淳弥の姿を見るのは、病院以来だ。頬の辺りの骨が目立つ、少し痩せたように夕希には見えた。

それでも、クールビズのワイシャツ姿で、元気に会社に行ってるらしい姿に、夕希は胸を撫で下ろした。

 

「…久し振りだね、夕希ちゃん」

 

麻衣香や琢朗、夕希の父からじろじろ見られて、所在なさげにしながら、淳弥は夕希にそう話し掛けてきた。

「身体…もう、いいんですか?」

「うん。大丈夫。夕希ちゃんの方こそ…」

 

そう言って、淳弥の視線は夕希の顔から、腹部の方に降りていった。漸く3ヶ月の終わりという腹は、まだ目立ってない。寧ろ、食べ物の好みの変化とか、胸の張りとか。自分が身籠るまでは知らなかった身体の変化の方が大きかった。

 

「どうして教えてくれなかったの」

「…淳さんも、私に大事なこと隠してたから、仕返しです」

 

淳弥の負担を軽くしようと、冗談めかして言ったのに、淳弥は眉がぐにゃりと下がった。

淳弥が入ってきたことで、部屋の温度が上がったせいか、エアコンのモーター音が大きくなる。

「仮に、夕希があんたに妊娠の事実を話していたとして、峰さんはどうしたって言うんだ」

厳しい口調で、淳弥を問い詰めたのは、夕希の父だ。そして、ちらりと麻衣香の方に一瞥をくれる。

 

「お父さん、やめて。全部、私の意思なんだから」

「うるさい、俺はこれでも怒りを抑えてる。――峰さん、堕胎すれば、娘の身体に傷がつくし、出産させれば、娘の未来が閉ざされる――こんなことのために、都会の大学にやったんじゃないって、親の気持わかるか? あんたにも、娘がいるんだろう?」

「はい…」

 

淳弥は苦しげに頷いた。

 

「全てあんたが悪いとか、全責任を負え、なんてことは思ってない。でもね。誠意の一端くらいは見せて欲しかった。娘を妊娠させておいて、ほったらかしで、ましてあんたの奥さんが先に来て、別れてくれなんて恫喝してくる…なんて男に引っかかったんだ、って感想しかこっちはないわけだ」

「お怒りはごもっともだと思ってます」

 

淳弥は正座して、頭を垂れた。けれど、次の瞬間「ですが」と、顔を上げ、彼は夕希の方に視線を向けた。

(淳、さん…?)

何かを伝えるように、夕希の姿を捉える真摯な眼差しに、夕希はドキッとさせられる。

 

「僕は夕希さんを愛しています。妻とは別れて、夕希さんとお腹の子どもと、新たな家庭を作って行きたいと願ってます」

現妻の麻衣香の真ん前で、淳弥が放った宣言に、その場にいた者は全員息を飲んだ。色んなことをすっ飛ばし、現実的とは到底思えない言葉に。

 

「いやちょっと君…」

夕希の父が、思わず麻衣香を同情的に見てしまった程だ。

 

「妻とはずっと折り合いが悪いままで来ています。無論子どももいるので、僕に出来ることはしていくつもりですが、これからの一生は、夕希ちゃん。僕は君と歩きたい――」

「……」

 

いちばんになりたい。

 

淳弥にとって、いちばん身近でいちばん大切で、いちばん愛される――そんな存在になりたいと、そう願っていたはずなのに。

 

夕希の隣にいた琢朗が、「良かったじゃん」と言わんばかりに、肩に肩をぶつけてきた。けれど――どうしてだろう。待ち焦がれていた言葉を前に、夕希の心は想像以上に冷静だった。

 

どうしようどうしよう。夕希が返事をためらった刹那。

 

「…どうして?」

呆然自失となった麻衣香の声が、その場にいた者全員の耳を打つ。みなが注目してるのを知ってか知らずか、麻衣香は頼りない蜃気楼のようにゆらゆらと揺れながら、立ち上がる。虚ろな目、覚束ない足取りで、一歩ずつ淳弥の方に近づいていく。

 

「麻衣。君には悪いと思ってる…でも、このまま偽りの結婚生活を続けていくのは、僕のためにも君のためにもならない。まだ麻衣は若いんだし、いくらでも…」

淳弥の方は完全に及び腰だった。じりじり、っとお尻だけで後ろに後ずさり、両手を前に出し、麻衣香を拒絶する。けれど、麻衣香の歩みは止まらなかった。

 

「嘘つき」

そう言って、麻衣香が淳弥に示したのは、自分の薬指にはめられてるマリッジリングだ。そういえば、今日も淳弥の左手の薬指には何もついていない。

 

「麻衣…」

淳弥を見下ろしたと思った麻衣香はすぐに膝から崩れ落ちた。頭を抱え込んで、目を固く閉じて、小さな子みたいに畳の上にうずくまる。

 

 

「どうして、どうして淳くんは、私だけを愛してくれないのお?」

 

麻衣香の悲壮な叫び声が、10畳の和室に響き渡った。

 


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