最終章 ♯7


 

「妻が手の付けられない状態になったので、今日のところは引き取ります」

 

淳弥は諦めたようにそう言って、麻衣香の肩を抱いて立ち上がる。麻衣香はまだ子どもみたいにひくひくっと言った嗚咽を漏らしている。

 

「ああ…」

あっけに取られたように夕希の父と母は、この人騒がせな夫婦を見送った。

 

「いいの?」

同じように言葉すら交わせず、淳弥が遠ざかるのを見ていた夕希に琢朗が尋ねる。

 

「え」

 

追いかけたい気持はあるのだ。けれど、今、淳弥は麻衣香といるのだし、それに何を話していいのかもわからない。

 

『これからの一生は、夕希ちゃん。僕は君と歩きたい――』淳弥の言葉に対する回答を、今の夕希は持っていない――。

 

 

「…でも」

「今逃したら、次いつになるかわかんないよ」

「う、うん…」

 

せっつかれて、淳弥を負って、夕希は表に出る。淳弥は、麻衣香を助手席に乗せているところだった。

「夕希ちゃん…」

麻衣香に「待ってて」とひとこと残し、淳弥は車のドアを閉め、夕希の方に歩いてくる。近づく距離が嬉しい。だけど、切ない。

さっき、淳弥に愛している言われた時の違和感と冷静さを、夕希なりに頭の中で整理してみる。淳弥の方に顔を向けたら、車のリアウィンドー越しに、麻衣香と目が合ってしまった。

 

違和感の正体が夕希にはわかってしまった。

 

 

やっぱりこの人は、彼女のものなのだ。淳弥が指輪を外してるとか、自分に子どもが出来たとか、関係なく。

 

「淳さん…」

「夕希ちゃん。ごめんね。今すぐには無理だけど、なるべく早く迎えに行けるようにするから。お腹のあかちゃん、大事にして。それとこれ」

 

ごそごそとカバンを探って、淳弥が取り出したのは、お守りだった。安産祈願と、学業成就と、両方の。

「神様に欲張りだって、呆れられちゃうかもしれないけど、俺はどっちも選べなかったから。夕希ちゃんに直接渡せて良かった」

淳弥らしい心遣いだ。淳弥の手の色の違うお守りを、夕希は迷いながら受け取った。

 

「ありがとうございます。――淳さんからの餞だと思って、大事にします」

「餞?」

夕希の選んだ言葉に、淳弥は首をかしげた。

優しくて、穏やかで、そして――ずるい人。今でも愛しているし、傍にいたい気持に変わりはない。けれど。

 

「…淳さんは、優しさを向ける相手を間違ってます」

「夕希ちゃん…?」

「前にも言いました。麻衣香さんと幸せになってください」

泣きたい気持を懸命に抑えて、そこまでは笑顔で言った。そして、そのまま走り去ろうと、踵を返そうとした夕希の腕を、淳弥がしっかりと掴む。

 

「待ってよ、夕希ちゃん」

行動を遮られ、バランスを失った夕希の身体を、淳弥は支え、そのまま自分の腕の中に閉じ込めた。

「麻衣とは、もう無理だ、無理なんだ。幸せになんて、なれない。俺が、生きてていちばん幸せだと思うのは、夕希ちゃんといる時だから。やっと、それがわかったんだ」

「淳さん」

強く抱きしめられて、情熱的な言葉を重ねられると、絆されそうになる。けれど、弾みそうな夕希の心に重しを掛けるのは、さっきの麻衣香の絶叫だ。

 

あの声を、言葉を、自分は一生忘れることはないんじゃないかと思う。――淳弥は、違うのだろうか。

 

「今日は、ゆっくり話せないけど、必ずまたすぐにここに来るから。あ、夕希ちゃん、いつまでここにいるの? 東京に戻るんだったら、またいくらでも――」

「私は…」

「ん?」

「私、今、上條くんの家に住んでるんです」

 

結局流れてしまった話だけれど、一度は夕希も真剣に琢朗の提案に乗るつもりだったのだから、まるきりデタラメでもない。

夕希の背中に回された腕が、二の腕に置かれ、淳弥の身体から遠ざけられる。

呉での時と、まるで逆だ。今度は、淳弥が驚き傷ついた顔になった。

 

「…ホントなの? 夕希ちゃん」

「……」

 

まるで声を奪われた人魚姫みたいに、夕希は首だけ縦に振って、コクンと頷く。ほんの一瞬前までとは、淳弥の目の色が全く違う。そして、夕希の背後に現れた琢朗の姿は、夕希の言葉を裏付けるに足るものだったらしい。

 

「…そう、そういうことなんだ」

冷たく言い放つと、淳弥は白いプリウスに乗り、すぐに車を発進させてしまう。夕希と琢朗を振り返ったのは、助手席にいた麻衣香だけだった。

 

 

 

「嘘つきだね、糸井さん。俺との同居なんてドタキャンしたくせに」

「…し、知ってて訂正しない上條くんだって、同罪じゃない」

「俺は糸井さんの意向に添っただけだよ。けど…」

琢朗は淳弥の走り去った方角に首を向ける。

「あれで良かったの? 本当に」

 

淳弥にした時とは逆に、今度は首を左右に振る。本当に、なんてわざわざ念押ししないで欲しい。夕希にだって、何が正解で、何が自分の本音かなんてわからない。夕希の淳弥への気持は変わらないし。お腹の子どものためにも、父親はいた方がいい――。

 

「淳さんと幸せになりたかった…けどっ。麻衣香さんから奪うみたいのはやだった、から…っ」

 

我慢して我慢してきた涙がもう、限界だった。ぎゅっと固くつむった涙から、押し殺していた涙が、本音が溢れだす。淳弥に別れを切り出したのは、3回めだが、今回のこれがいちばん辛い。淳弥は、夕希を愛していると、言ってくれたのに。

 

 

「ばかだね、糸井さん。他人のことなんて気にしてたら、いつまでも幸せになんてなれないよ」

そう言いながら、琢朗は手のひらを夕希の頬にあてがい、優しく夕希の涙を拭う。

「けど、俺は糸井さんのそういうとこ、好きだよ」

「……っ」

 

からかったり、落としたり――口説いてみたり。上條くんは何がしたいんだろ。夕希には、全く理解に苦しむ。けれど、目の前にある優しい手は、今は、自分だけのものだ。

 

(今だけ、甘えてもいいよね…)

 

 

 


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