08


 

糸井夕希は、次の週には東京に戻ってきていた。

以前より、古くて狭くて、そして賃料の安いアパートに引っ越し、深夜のアルバイトはやめて、昼間のだけにしたらしい。

 

「身体もきつくなってきたし。勉強も追い込みだしね」

右手で力こぶを作って、「大丈夫」だと笑う。その強さに危なっかしさを覚えつつ、琢朗も「頑張れよ」とだけ言って笑った。

 

出産予定日は5月の終わりだという。司法試験は、5月の半ばに論文式試験が3日、短答式試験が1日――。

「絶対それまでは生まれないでね」って今から、この子にお願いしてるんだ。そう言って、まだ膨らんでない腹を、夕希は愛おしそうに撫でた。

 

 

淳弥からは、実家の方にまた何度か連絡が来たらしい。けれど、夕希は声も聞いてないという。淳弥の名を聞いても、心が揺れなくなった。半ば強がりかもしれないが、夕希は今度は自分が出した別れの決断を悔いてはいないのだろう。

 

「なんかね、今は淳さんよりこの子の方が大切なの。女って、結局ひとつのものしか愛せないのかな」

 

エコー写真を見せながら、語る夕希の女性論は、琢朗には返答しようがない。けれど、夕希が前の恋を吹っ切ってくれるのなら万々歳だ。自分の方に気持が向けば、更に良かったのに、意外な、かつ強力なライバルの出現に苦笑いするしかない。

 

峰夫妻が演じた修羅場のおかげで却って、夕希の両親は孫を守る決意を固めたようで、産前産後のバックアップはバッチリだと請け負ってくれた。

 

 あの殺人的だった陽射しも、かなり和らぎ、エアコンのリモコンもしばらく触っていない。季節は緩やかに、けれど確実に動いている。

どの道が正しいかはわからないが、みな、前に進んでいく――。琢朗の家の方でも、大きな変化が訪れようとしていた――。

 

 

 

 

結婚届けの用紙には、既に父の名も、芙美の名も書いてあった。証人の欄も、1名分は既に埋まっている。自分が記入しさえすれば、この用紙は完全なものになる。

 

「…親の婚姻届に、実子が証人になる、って稀なケースなんだろうな」

湧き上がった緊張感を、琢朗は自らを揶揄することでごまかした。

「そういうのは、お前の方が専門だろう。――嫌なら、書かなくてもいい」

相変わらずの慧眼で、父は琢朗の胸に湧き上がった逡巡を見透かしたように言ってきた。

父は芙美と入籍する決意を固めた。結婚式もない。一緒に暮らせるのは、父が治療の合間に許された退院期間だけ。それだって、何年続くかわからない。

 

「俺が書かなかったら、誰に頼むの?」

アテがなさそうなのを知っていて、わざと聞いてみた。亡き母の両親はもとより、芙美の両親も、父の両親でさえ、反対している結婚だ。不倫の末のゴールは、元の配偶者が亡き者になっていても、何年経っていても、時効は成立しないらしい。

 琢朗の欄の上部のもう1名は、父の主治医でもあり、かつての同僚でもある医者の名が記されてるくらいなのだから。

 

「お前が書かなかったら――その用紙は無効にするだけだ」

重大な発言を、ベッドの上で、父はあっさりと言う。隣に座っていた芙美が、寂しそうに微笑んだ。

 

「卑怯だろ、そんなん…っ。俺に責任なすりつけて」

「なすりつけているわけじゃない。誰も、認めてくれない婚姻に先はないと思うからだ。芙美だって、未亡人になったあと、辛いだろう」

飄々とどちらでもいいのだと言わんばかりの父の言葉は、だけど、抗えない説得力があった。

(未亡人になる、とか決めつけてるし)

母が存命だった頃は――と言うより、つい最近までは、不倫なんて憎悪と軽蔑の対象でしかなかった琢朗だが、最近考え方が大いに変わった。

 

不倫は確かにいけない。法律的にも人道的にもアウトだ。

けれど、いけないとわかっていて、敢えてその道に踏み込んでしまう人たちを、上から一方的に糾弾する権利は、当事者ではない自分にはない――。その立場になってみなければ、わからないことはきっとあるのだ。

父も、どうして芙美とそういう経緯になったのか、多くを語ることはないが、母を苦しめ、息子に軽蔑され、尚、彼女を手放そうとしなかった父には、父の事情があるのだろう。

(――母さん、ごめん)

父のパーカーの万年筆を借り、琢朗は自分の名と本籍を、その用紙に認めた。

 

「これでいい?」

父に手渡すと、父はそれを穴が空くほど、じいっと見つめる。横から、芙美も覗いてきた。

 

「ああ――」

「芙美さんが出しに行くの?」

「いや、午後は外出許可が取ってある――俺も行く」

仲のよろしいことで。新婚というにはとうの経ちすぎたふたりを、琢朗はちょっとうらやましい気持で見つめる。自分の恋はちっともうまく行かないって言うのに。

 

 

「――なあ、親父。家族ってなんだろ」

たとえば、これを提出してしまえば、父と芙美は夫婦になり、芙美と琢朗は親子ということになる。血は繋がっていないのに。

 

琢朗の質問は、父には脈絡がなかったようだ。「何だ、いきなり」と意味がわからないと言った顔をされた。

 

「いや、血の繋がりってなんなのかな、って。その…たとえばさ、自分の子どもでない子どもって、父さんは愛せる? その母親になる人と、その子どもと家族になれるかな」

飽くまで喩えだと前置きしたのに、父はふうっとため息をついた。

「なんだ、また糸井さんの話か」

「な…っ」

この部屋には俺を監視するモニター画面でもあるの? 図星を言い当てられて、琢朗は目に見えて動揺する。

 

「芙美さんに聞いたんだ。お前の好きな子は、不倫相手の子どもをみごもってるって」

ああ、そういうことか。納得し、安心してから、急に芙美への恨みが湧いてくる。余計なことを。

ぎろっと睨むと、芙美は両手を口の前に合わせて、「ごめんね」と軽く謝る。

「実の子でさえ、育て守り愛していくのは、並大抵の苦労じゃないのに」

琢朗に視線を向けながら、父はしみじみと言う。

ああ、そりゃどうも。すみませんね。並大抵以上の苦労をさせて。琢朗はこっそりと心の中でやさぐれる。

けれど、次の瞬間、父から出た言葉は、琢朗の迷いを吹き飛ばすものだった。

 

「だがお前は――愛したいと思ってるんだろう? 彼女とその子を」

 


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