09


 

以前に琢朗が「家族になってよ」と夕希に言ったあの言葉は嘘じゃない。けれど、あの時は父がいなくなるかもしれない不安で、ひとりぼっちから逃れたい思いも強かった。

 

けれど、今はもっと積極的にどうにかしたいと思っている。夕希は海原を行く小さな舟みたいだ。風に波に晒されても、助けも支えもなく、真っ直ぐに進もうとしている。

 

 

「難しいのはわかってるけど…」

「…血がつながっていても、我が子を虐待する親もいれば、憎みあう親子もいる。こうだから出来ない、とか無理とか初めから言って何もしないのは、臆病者の言い訳だと俺は思うね」

 

なんだってやってみなければわからないし、始まらない。

「ま、彼女がお前の手を欲してるかどうかはまた別の話だがな」

「気合を挫くようなこと、言うなよっ!」

琢朗と父の会話を芙美がくすくす笑いながら聞いている。

「やっぱり親子よね。ひとこと多いところそっくりだもの」

そんな風に言われると黙らざるを得なくなる。

「俺、もう帰るわ。勉強したいし」

間が持てずに、琢朗は病室の戸に手を掛ける。

「ああ」

と、引き止めたりしないのが、琢朗の父らしい。

「琢朗、ありがとう」

珍しく大真面目な顔と声で言って、父は先程の婚姻届を大きくかざした。

「今度は浮気すんなよ」

やっぱり一言多いと、芙美に言われそうな台詞を捨て台詞にして、琢朗は病室を出た。

 

不倫の末の結婚は、琢朗の祖父母でさえ、いい顔をしなかった。それでも幸せになろうと決めた父を、琢朗は応援したい。まあ絶対面と向かって口にしたりはしないけれど。

道を外した人だって幸せになる権利はあるはずだ。

そして――糸井夕希は自分が幸せにしたい。

 

(ま、意気がってみたとこで、全く相手にされてないんだけどね)

前途の多難さを思うと、ため息がこぼれてしまう琢朗だった。

 

 

 

 

法科院の卒業式は、粉雪がちらつくくらい、寒い日だった。新調したスーツを着、琢朗は式典に出席する。3列くらい前に、茜色の袴姿の夕希を見つけた。

 

 

「袴姿の妊婦って迫力だね」

式が終わると、真っ先に琢朗は夕希の元に近づいた。夕希は一瞬ぽかんとした顔をしてから。

「え、嘘、上條くん? 髪っ、髪黒くなってるよ」

まるで子どもみたいに大騒ぎする。そんなに過剰反応されるとは。琢朗は前髪をひと房つまんで、目を眇めた。

「卒業するし、試験に向けて決意を新たにイメチェンしたの。似合う?」

「似合うって言うか、なんて言うか…」

スーツとか着ちゃってるし、上條くんじゃないみたい。夕希はぼそぼそっと失礼なことを言う。

「そっちも随分…」

と琢朗は夕希の腹部に視線を落とした。袴の帯の辺りは随分盛り上がっている。

 

「上條くん」

「ん?」

「お世話になりました」

 

夕希は深々と頭を下げる。他人行儀なやつだな、ホント。朗々と別れの挨拶みたいにしてくる夕希にちょっとだけイラつく。

 

「どーも」

「次に会う時は試験会場だね」

「そうだね。俺、絶対一発で決めるから」

「…私だって、負けないよ?」

負けず嫌いで頑張りやで、やっぱり夕希は変わっていない。

 

「糸井さん」

「何?」

「お腹、触ってもいい?」

「えっ」

「セクハラっぽい?」

夕希のことは(一方的にだけど)何度も抱きしめたことがあって、キスまでしたっていうのに、彼女の身体の中で別の生命体のように、異彩を放ち、自己主張の激しい部分に触れるのに、緊張した。夕希の方が、あっけらかんとしてる。

「上條くんならいいよ」

上條くんなら。特別扱いっぽいその台詞は、夕希なりの琢朗への好意と信頼の表れなのか、男性として意識してないからなのか。

(まあ、どっちでもいいんだけどさ)

片思いも長いと、妙に達観してしまう。

 

手を乗せると、思った以上に弾力があった。もっと、壊れそうな柔らかいものを想像していたのだが、ちょっとやそっとの刺激じゃびくともしなそうな安定感がある。

「こんな感じなんだ」

すごく不思議で、神聖な感じだ。琢朗の手の感触に違和感を覚えたのか、中からぽこっと音がした。

「あ」

「胎動?」

「うん。元気なんだよねえ。しょちゅう蹴り入れられる」

痛くって、といいながら、夕希は嬉しそうに笑う。

「男?女?」

「男の子だって」

「そうなんだ」

男の子かあ。琢朗の想像が膨らむ。

 

「あれから峰さんとは…?」

琢朗にしては、慎重な物言いで夕希に尋ねてみると、途端に夕希の表情に影がさす。

 

「やだな、もう。忘れかけてるのに」

袴に合わせて、綺麗に結い上げた前髪を、夕希は指でいじる。

「あ、ごめん」

触れちゃいけないところに触れてしまったらしい。

「もう、いいの。終わったことなの。この子は、私の子だから」

夕希は自分に言い聞かせるように言って、お腹の中央に両手を当てる。

こんなに大きくなるまで守ってきたように、これからも夕希はきっと頑張ってその子どもを育てるのだろう。

 

「糸井さん」

「ん?」

「前に俺が言ったこと――憶えてる?」

「え、えっとえっと」

「俺の家族になってよ――ってやつ」

 

夕希の手に自分の手を重ねながら言うと、夕希は真っ赤になった。

 


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