最終章 #10


 

忘れるわけはない。あの時、琢朗は「考えておいて」と夕希に時間と選択の余地を残した。けれど、考えれば考える程、琢朗には何ひとついいことなんてない話だ。

 

「お、覚えてるけど…」

 

 

 

「この部屋、糸井さん、自由に使っていいよ」

開かれた扉の向こうにあるのは、敷き詰められたカーペットに広めのベッド。開け放たれた窓の両脇で、淡いグリーンのカーテンが揺れている。

「…う、うん」

思った以上に広く、快適そうな部屋を呈示され、夕希は戸惑いながら頷いた。

「綺麗にしてるんだね」

「俺じゃなくて、家政婦さんがね。不要なものは…ほら、前に糸井さんがこの家住むってなった時にあらから片付けたから」

「…その節はご迷惑を」

そういえば、そんなこともあったね。夕希を庇って、淳弥が負傷したのが、遠い昔に思える。それだけ、この僅かな期間の間に、いろんなことがあったということなんだろう。

 

だけど、今回のコレはその中でも、最たるものかもしれない。

 

だって、まさかまさか上條くんと結婚することになるなんて~~~~。

 

 

 

卒業式のあの日――

 

「前に俺が言ったこと――憶えてる?」

「え、えっとえっと」

「俺の家族になってよ――ってやつ」

答えかねてる夕希に琢朗は続ける。

「峰さんは認知するって話だったけど、結局は婚外子になるよね。でも、俺と結婚したら、その子は糸井さんと俺の子になる――真実を知ってるのは、俺と糸井さんの身内だけだ――」

琢朗の憂慮と同じことは、夕希だって何度も思った。シングルマザー。婚外子。私生児。

それでも、母親のエゴを愛情が上回れば、いつか子どもはわかってくれる。出生のハンディキャップを夕希は補っていくつもりだった。

けれど、今、夕希に示された琢朗の提案は、出産が近くなるにつれて、膨らんできた夕希の不安を一気に払拭し解決するものだ。だが琢朗にはメリットどころか、デメリットしかないし、何より夕希の気持が全く伴わない。

 

「…そ、そんな結婚、上條くんはいいの?」

「俺の意思を確認するのは、ずるいよ。糸井さん。適当に一時しのぎの感情で、こんなこと言ってると思ってる? 俺が知りたいのは、糸井さんの気持だよ」

 

ぐいぐいと琢朗は夕希に踏み込んでくる。確かに、琢朗の意思を今更尋ねて、言い訳にする自分はずるい。だが、夕希には怖い。

琢朗には何の責任もないことで、琢朗の人生を巻き添えにしてしまうことが。

 

も、もうちょっと考えさせて」

「なんでよ、時間は十二分にあったろ?」

「あったけど」

「実はあんまり考えてこなかったろ」

「…実はそうです」

素直に白状すると、琢朗は「やっぱりね」と笑う。

「とりあえず、うち来る?」

「えっ」

「そんな身構えないでよ。ちゃんとゆっくり話そ? 糸井さんのこれからのこと」

 

琢朗の淹れてくれた渋いお茶を飲みながら話したのは、もちろん甘い恋のささやき

ではなくて、圧倒的に夕希に有利な条件の提示ばかりだった。

 

 

「入籍って言っだけど、普通の結婚じゃないから、糸井さんは俺の妻になるとは思わなくっていいよ。糸井さんがいいって言うまで、俺は糸井さんの部屋には入らないようにするから。あと、生まれる前に入籍しちゃった方がいいよね。糸井さん、本籍静岡? じゃ、ご両親に挨拶行くついでに、本籍取りに行って…」

「か、上條くんっ」

琢朗の暴走っぷりについていけない。

 

「ん? やっぱりやめとく?」

「なんでそんな

疑問が湧くばっかりだ。なんで? どうして? 私なんか。戸惑いに縮こまる夕希に、向かいの席で琢朗はきっぱりと言う。

 

 

「言ったはずだけど」

「え?」

「俺は『家族』が欲しいんだって――」

病身の父、既にこの世にいない母、元父の愛人だった新しい義母(はは)――。夕希の想像以上に琢朗は孤独なのかもしれない。

夕希も、お腹の子どもの父が欲しい。条件面では折り合いがついてしまう。

「ホントにいいの…?」

重ねて確かめると、琢朗はぶっと吹き出した。

「糸井さんて、くどいよね」

こんな重大案件、何度も確認したくなるのに決まってるのに。頬をふくらませはしたものの、抗議は口にしなかった夕希だった。

 

 

かなり常軌を逸した話なのに、夕希の両親は琢朗の話に、大賛成だった。

「あんな怖い奥さんがいる人より、絶対琢朗くんの方がいいわよ。ちょっとチャラいけど、イケメンだし、何より将来の弁護士候補じゃな~い」

ミーハーな母親の言葉は脇に置いておくにしても、あの厳格な父までが「お前が決めたんなら、それでいい」とあっさりと同意したのが意外だった。

琢朗の父に至っては、もっと軽い。

「あんな不肖の息子に、こんな可愛いお嬢さんがついててくれるなら、もうこの世に心残りはないですよ。いやあ。良かったなあ、琢朗」

「親父、どさくさまぎれに、糸井さんの手握るのやめてくれよ」

 

そんなこんなで、昨日極狭のアパートから、僅かな荷物を琢朗の家に運び入れ、住民票を移し、来週に入籍というところまで、とんとん拍子に話が進んでしまったのだ。計らずも、最後に淳弥についた嘘が、現実になってしまっている。

 

 

改めて、これからの生活空間を眺めて、夕希は大きく息をついた。

(ホントにこれで良かったのかな…)

もう、そんな風にこの状況を顧みることもしないことにした。

自分がすべきことは、うじうじぐだぐだ考えることじゃない。目の前の出産と司法試験に全力を注ぐことだけだ。

試験の問題集に手を伸ばそうとした時だった。

こんこんと、部屋がノックされる。

 

ドアを開けると、琢朗は開いた扉に背をもたれて、入り口のところで部屋全体を見回す。

 

ベッドとデスク。それに、幅が細くて、背の高い本棚がひとつ――およそ年頃の女の子らしくない地味なインテリアだ。

「どう? 新しい部屋は。足りないものとか、ありそう?」

「じゅ、十分だよっ。上條くん、ありがとね」

「いーえ。どうせ、こういうの全部親の脛だから」

 

柱を手のひらで軽く叩いて、琢朗は苦笑いする。琢朗と父の関係も、つかみ所がない。そもそも、父が病気であまり長くないと知っているのなら、残された時間はその父と過ごしたいと思うのではないのだろうか。

 

「上條くん」

「ん?」

「あ、やっぱりなんでもない」

 

(お父さんのこと、どう思ってるの?)

夕希は浮かんだ質問を、自分の胸に閉じ込めた。自分たちは、『家族』だけど『夫婦』じゃない。信頼はしあってるけど、愛し合ってるわけじゃない。

まだ琢朗の心の深い閉ざされた部分にまで、触れちゃいけないし、触れさせてもくれないだろうと、判断したのだ。

 

「糸井さん、俺ちょっと出かけてくる」

「え? うん」

「夕飯までには帰るね」

蕎麦でも食べる? 何処か食べに行く? 考えておいて。夕希にそう言い残して、琢朗は出かけてしまった。

重たくなった身体をベッドに横たえ、夕希はいつのまにか眠ってしまっていた。耳元で、スマホがメロディを鳴らしていて、眠っていたことにも気がつく。

(上條くんかな)

慌てて跳ね起き、ディスプレイを確かめる――見覚えのある数字だが、表示はない。

(誰だろ…)

首を傾げながら、夕希はスマホを耳に当てる。

「もしもし」

「……」

躊躇いがちに1拍置いたあとで、スマホの向こう側の人は、ゆっくりと話出す。

 

 

「…夕希ちゃん? 久しぶり」

 

聞こえてきたのは、忘れようにも忘れられない懐かしい人の声だった。

 

 

 

 


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