最終章 ♯13


 

琢朗との生活は、夫婦や家族というより、ルームシェアの戦友同士という感じだ。

共に、司法試験という目標は同じだから、共に励まし合い、高め合える――過去の論文問題でも、お互いの意見を戦わせて朝まで議論してしまうことなどもあった。学校は卒業し、ふたりとも今は仕事はしていない――だからこそ出来る贅沢だろうが。

 

「夕希、夕希」

琢朗に肩を叩かれて、夕希は両腕を組んで作った枕から、顔を上げる。

「あ…」

「ここで寝たら風邪引くよ? 試験と出産前の大事な身体なんだから」

テーブルの上で、論文形式の問題を解いていて、文章を推敲しているうちに眠ってしまったらしい。

「あ、うん…」

琢朗の呼びかけに答えはするものの、またうつらうつらしてしまう。埒が明かないと思ったのだろう、琢朗は夕希の身体を横抱きに抱え上げようとした。ふわりと持ち上げられる感触に夢見心地が一気に覚醒する。ぱちっと目を開けると、琢朗の真顔がすぐ近くにあった。

「た、くろう…っ」

「あ、ごめん。ベッド、運ぼうと思って」

「歩けるから…」

「…うん」

夕希の膝裏と背中に回していた手を、琢朗はそっと離す。けれど、何か言いたげな視線が夕希に絡みつく。これまでこの家で感じたことのない艶めいた空気に包まれて、ひどく落ち着かない。鼓動だけが沈黙の中で、琢朗の耳にまで届くのではないかという力強さで、響く。

「そんな顔しないでよ」

張り詰めた空気を壊したのは、琢朗の苦笑いだった。

琢朗からの視線に怯えたように、俯いていた夕希は、やっと琢朗の顔を見上げる。

「おやすみ」

「おやすみなさい…」

逃げるように夕希はベッドに飛び込んだ。

少しずつ琢朗側に傾いていく心の天秤。これでいい、と思う一方で、淳弥への気持を断ち切れない、まだ断ち切りたくない思いもある。

なかなか寝付けなくて、夕希はお腹を抱え込んで別途の中で丸くなった。

 

 

司法試験は4日間に渡って行われる。

論文式試験は、選択科目、公法系、民事系、刑事系に分かれ、各1問から3問。そして最終日は、短答式試験と言って、記述形式の問題が各分野に渡って、20問出題される。試験日は最後だが、この試験に合格しないと、論文式試験の採点はして貰えない。いわば、各受験者の実力を調べる足切り試験だ。

琢朗とは試験会場は別々だった。ちょっと心細いが、戦友兼ライバルの動向を気にしなくていいのは、プラスかもしれない。そんな風に、前向きに受け止めることにした。

どうせ、試験が始まってしまえば、みんなひとりひとりだ。

「頑張ろうな」

玄関先で励まし合って、同時に家を出て、違う目的地に向かった。

 

会場につき、座る。緊張のせいか、お腹が張ってきた。既に、38週、臨月に入ってる。

「もう、いつ生まれてもおかしくないんだから」と産科医に言われた赤ちゃんは、2,700グラムまで育ってきている。

(まだ…まだ、待ってて。ね?)

まだ見ぬ我が子に言い聞かせるようにお腹をさすって、胸の中で話しかける。

妊婦姿の受験生に、周囲からの訝しげな視線が飛んで来る。でも、関係ない。自分は自分だ。

カバンに忍ばせておいた、淳弥から貰ったお守りを握りしめて、気持を落ち着けた。

 

神経を消耗しすぎて、へとへとになりながら、家に帰った。琢朗ももう戻って来てた。彼は既に、明日に備えて、民法の見直しをしている。

そうだった。まだ、明日も明々後日もあるんだ。

ライバルの姿に、気を引き締める。

 

 

2日目、そして1日間を置いて3日目。試験は順調に終わっていく。明日の最終日に備え、はやめにベッドに入った夕希だったが、真夜中になって、鈍痛に襲われて、目が覚めた。

中から外に向かって、押し上げるような痛みが、小刻みに、定期的に訪れる。

(これって、もしかして陣痛…?)

 

予定日は2週間も先なのに。

(お願い、もうちょっと待って)

祈るような気持を込めて、腹を擦ると、一旦痛みは引いて、意識も朦朧となってうつらうつら眠る。しかし、また同じ痛みに起こされる――そんなことが何度も続くうちに、夜は次第に明け始め、痛みの感覚も狭まってきた。

(間違いない、陣痛だ)

間隔が10分程度になったら、病院に来るように言われている。

(…ああ、もうなんでこんな時に)

けれど、間の悪さを嘆いている暇はない。入院グッズは既に用意してある。受験票と筆記用具の代わりに、それらを準備していたら、琢朗も起きてきた。

「ゆう、き…?」

また襲ってきた痛みに、夕希は顔をしかめて、うずくまる。

「だ、大丈夫?」

「…うん、平気…。始まっちゃったみたい…」

「始まったってまさか…」

「うん、生まれちゃいそう、あかちゃん」

夕希が告げると、琢朗は思い切り舌打ちした。

なんだってこんな時に。今日で最後なのに。

「琢朗、タクシー呼んでくれる? 病院行かないと」

「待って、俺も行く」

琢朗がそう言うのはわかっていた。けれど、夕希は声を張り上げて拒絶する。

「ダメ、琢朗は試験受けて」

「こんな状況の夕希、ひとりで行かせられないよ」

「平気だから。痛みが収まってる時もあるの。その時なら、ちゃんと歩ける」

とりあえず、琢朗はタクシーを呼ぶ。そして車が来る間に着替えを始め、夕希が準備したスーツケースを手に取った。

「琢朗」

必要ないと言わんばかりに、琢朗の手から夕希はスーツケースを奪おうとする。けれど、男の手から奪えるわけもなかった。

「病院。すぐそこだろ? 送ったら、すぐに試験会場には向かうから。言い争ってる時間もったいないから行くよ、夕希」

 

ピシャっと琢朗に言われて、夕希は反論出来ずに、琢朗の後をついていく。

タクシーは既に、マンションのエントランス前の車泊まりに来ていた。

夕希を先に乗せ、琢朗はスーツケースをトランクに放り込んでから、隣に座る。また、陣痛が始まった。もう、夕希は司法試験が受けられない不運なんて嘆いていなかった。

ただ、ひたすら無事にお腹の赤ちゃんが生まれてくれることを願う。

琢朗の肩に支えられるようにして、病院に入った。診察時間まではまだあったが、陣痛の場合は裏から呼び出してくださいと言われている。

すぐに看護師さんが出てきてくれ、受付を済ませ、診察を待った。

 

「終わったら、すぐにこっち来るから」

腕時計をちらっと見ながら、琢朗は言う。恐らく会場まではギリギリだ。早く琢朗を行かせなきゃと言う思いと、行かないでという思い。相反する感情が、夕希の中でせめぎあう。

いつの間に自分は、こんなに彼に寄りかかって生きてるのだろう。けれどすぐに思い返す。

(違う。ずっとだ…)

淳弥の嘘を暴くために、広島に行った時から、ずっと夕希は琢朗に甘え続けてる。

 

「じゃね、夕希」

踵を返して病院を立ち去ろうとする琢朗の背中のシャツを夕希は咄嗟に掴んでた。不思議そうに振り返った琢朗の唇に、夕希は顔を近づける。勢い良く、夕希の唇は、琢朗のそれを掠めた。

 

 

 


                     

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