最終章 ♯14


 

うまい言葉も思いつかず、感謝と激励を伝えたくて、気がついたら身体が動いてたのだ。夕希の衝動的な行動に、琢朗は目を瞠って驚いていたが、やった本人がいちばんびっくりだ。

(な、何やってんだろ、私…)

診療時間前のひと気のない病棟だからって。

「あ、え、えっと頑張って…」

「う、うん」

不自然な会話をかわしてから、目も合わさないまんま、琢朗の背中を見送った。

 

 

診察室に呼ばれ、内診を受ける。

「陣痛始まってますね。今日中には生まれますよ」

医師に太鼓判を押され、期待に胸が高鳴った。

 

けれど、そこからは地獄のような時間だった。

 

お腹、痛い。

楽な姿勢にしてていい、って言われたけれど、もうどうやっても辛い。うつ伏せになったり、仰向けたり、横向になったり。小さなベッドの上で悶えていると、ますます痛みが増していくように思えた。

(こんなに苦しいなんて思わなかった…)

生むと決意したことを、この期に及んで後悔したくなったが、もう後戻りなんか出来ない。

「大丈夫?」

誰かが冷たいタオルで、額の汗を拭ってくれる。のけられた手のひらの先に、ふみの姿があった。

「ふみ、さん…」

「琢朗くんから、連絡貰ったの。もし、出来るなら傍についててあげて、って。これでも、看護士の端くれだからね。夕希ちゃん、何でも言って」

微笑み掛けられて、安心する。ひとりじゃないって、こんなに心強いんだ。

「あり、がとございます」

「喉渇いてない?」

「少し」

ふみが自販機で買ってきてくれたイオン水を飲んで、ひと息つけた。けれど、五分もしないうちに、また強い痛みが襲ってくる。寄せては引いて、また寄せて…波のように繰り返される陣痛の間隔は、病院についた頃より、更に狭まっていた。

(琢朗、試験どうしたかな…)

時計を見て、彼のことが気にかかった。

お礼のラインしようかな。でも、絶対俺のことなんかいいから、って言われる。

ふみが何か食べたら…と買ってきてくれたおにぎりもサンドイッチも、口にできなかった。午後になってすぐ、産科の看護士さんが来て、子宮口が開いてることを確かめ、夕希は分娩室に移される。

(いよいよ生まれるんだ…)

そう思うと、不思議とどんな痛みも耐えられるような気がした。

だけど、痛い。やっぱり痛い。身体が裂けそうだった。分娩台の横についててくれる看護師さんの言うままに、身体の力を抜いて、呼吸を合わせる。

何度か繰り返したのち、ふっと全身が軽くなって、すぐに産声が聞こえてきた。

 

「お母さん、頑張ったね。ほら可愛い男の子」

真っ赤なしわくちゃのあかちゃんを、タオルにくるんで、看護師さんが夕希の枕元につれてきてくれた。

「あ…」

可愛い。淳さんに似てるのかな? パパの面影を探すには、まだ目もちゃんと開いてなくて、判断出来ない。けれど、この子が自分が産んだ子なんだ…やっと実感出来て、涙が溢れそうになった。

 

一旦、あかちゃんとは引き離され、個室でぼーっとしていたら、琢朗が戻ってきた。

「精も根も尽き果てた顔してるよ。夕希」

入ってくるなり、琢朗は失礼極まりない。

 

「ひどっ」

確かに、さっき鏡で見たら、一気に5才くらい老けたような疲れきった顔だった。

「ウソウソ、ごめん。夕希」

枕に突っ伏した夕希の頭を琢朗が撫でる。

「頑張ったな」

飾らない琢朗の労いがじわりと沁みた。

 

「試験、どうだった」

「うん。手応えはあるけど…どうかな。発表まではわかんない。まあ、やれるだけはやったよ」

清々しくそう言える琢朗がちょっと恨めしい。自分はまた来年以降、受け直しだ。だけどしょうがない。これも、自分で選んだ道だ。

「あかちゃん、会ってきた?」

「いや、まだ」

「頼めば、連れてきてくれるみたいなの」

夕希がナースコールを押すと、しばらくしておくるみにくるまれて、あかちゃんが連れてこられた。

小さな柔らかい生命を、夕希はそっと抱き上げる。夕希の横で、琢朗はあかちゃんの手を握って「ちっちぇ~」なんて感動してる。

 

「名前、何がいいかな」

琢朗が何気なく放った台詞に、夕希はどきんとさせられた。

「淳さんが、名前つけてくれませんか?」

あの時、夕希に請われるままに、淳弥が名前をつけてくれていたとしたら――それは、今、ここで一生懸命父親になろうとしてくれる琢朗を裏切るようなものだったかもしれない。

(淳さんは、ちゃんと私のこと、考えててくれたんだ…)

自分の浅はかさと、淳弥の思いやりに泣けそうになってしまう。夕希は下唇を噛み締めた。

「ど、どしたの?」

「なんでもない――名前、琢朗が、考えて」

「え」

負わされた責任の重さに、琢朗は若干引き気味になる。

「一緒に考えようぜ。ふたりで考えていい方採用」

な?と、琢朗はにっと笑う。

 

ふたりで出しあった名前は、実に50以上。

「夕希が夕方の夕、なんだし。時繋がりで、暁(あきら)ってどう? 暁(あかつき)――って書いて暁」

「うん。いい。いいかもっ」あかつき――まだ、空は暗いけれど、次第に光を帯びて明るさを増していく――自分たちにピッタリの名前だ。

夕希が頷くと、琢朗は嬉しそうに目を細めた。

「決まりっ、お前暁だって。あきら」

子どもを抱き上げて、琢朗は暁に語りかける。もちろん、暁には何もわからないから、きょとんとしてるだけなのだが。

きっと、琢朗が夕希にとっての朝日なのだろう。

「琢朗、ありがと…」

諸々の感謝を込めて、夕希は琢朗にそう告げる。

 

何もわからずに、淳弥に恋をした。彼のことをよく知らず、未来なんて見えない手探りの恋。先の読めないドキドキが夕希の気持を盛り上げていたようにも思う。

けれど、今は違う。琢朗への気持はもっと穏やかだけれど、きちんと明日を考えることが出来る――

 

ぎこちない手つきで暁を抱き、懸命に語りかけてる琢朗のシャツの袖を夕希は引っ張った。

「…私にとっての朝日は琢朗だからね…」

混沌とした闇に光を射し、周囲を明るく照らしだす――。

夕希が初めて琢朗への思いを鮮明に告げると、琢朗は呆けた顔をしてから、暁を夕希の腕に戻してきた。

暁ごと、両腕で夕希の身体を抱きしめながら「夕希。恥ずかしくないの? それ」と夕希の耳に囁いたのは、琢朗らしい照れ隠しだろう。

「ひ、ひどっ。もう絶対、言わないっ」

「え。言ってよ」

「やだよ」

「じゃあ、言わなくてもいいから、キスしてもいい?」

「……」

返事の代わりに、そっと彼のシャツの袖を引っ張ると、琢朗はゆっくり夕希にくちづけた。夕希の腕の中の暁は、じいっと目を開けて、その様子を見ていた――