淳弥side ♯11


週末と有給を利用して3日程、淳哉は広島に滞在したのち、淳哉はまたひとり、単身赴任先に戻った。

 

「夏休みにはそっち行くね~」

夫の胸中に渦巻く感情を知ってか知らずか、麻衣香はにこにこと淳哉を送り出した。無論、離婚話などは持ちかけていない。夕希が司法試験に受かるまでは、変に麻衣香を刺激するようなことはしたくなかった。

 

毎日が会社と自宅の往復で潰れるルーティンワーク。同じような日々の中で、これまでと敢えて変えたこともあった。

仕事帰りに夕希の勤めるスーパーには寄らなくなった。やむなくコンビニで買う弁当は割高だし、バリエーションも少ないが、自業自得なのだから、仕方がない。それと、朝、家から出て行く時間を20分ほど早めた。夕希と鉢合わせないようにするためだ。

引っ越すとは言っていたが、いつ、とは聞いていないし、もう聞くことも出来ない。一度だけ、夕希のアパートに行き、ポストに現金を幾ばくか入れた封筒を忍ばせようと迷って迷って、結局投函せずに帰った。

 

こんなことをしても、淳哉の罪悪感がほんの一瞬、軽くなるだけで、夕希が喜ぶはずはない、そう思ったからだ。

 

 

踵を返して、自宅に帰ろうとした時、淳哉とは逆にこちらに向かってくる男がいた。目深に野球帽を被り、大きなリュックを右肩に提げた男は、淳哉の顔を見た瞬間、明らかに動揺し、歩調を早めた。

(……)

俯いてそそくさと歩く男とすれ違っても、淳哉の方は特に何も思わなかったのだが。

 

 

それから1週間ほど後、その日、淳哉は取引先との接待で遅くなり、終電の一本前という、いつもより遅い電車だった。ほろ酔い気分で電車から降り、改札を抜け、帰路を急ぐ。けれど、スーパーの前のベンチに座った男を見た瞬間、足が止まり、酔が醒めた。

 

先日すれ違った男がどっかりと座り込み、スマホを弄っている。同じ野球帽、同じリュック。間違いない、先日夕希のアパート近くですれ違った男だ。と、同時に、もうひとつの記憶が蘇った。

なぜ、忘れていたのかと、自分の後頭部を殴打したいくらい、重要な記憶。

(こいつ、夕希ちゃんを付け回してたやつじゃないか)

淳弥が追いかけて殴って、諦めたと思ったのに――。また夕希の近辺をうろついているのだろうか。

 

今度はスマホに熱中していて、男は淳弥の存在に気づかない。このまま帰れるわけなどなかった。淳弥は男に気づかれないように、スーパーの裏手に回りこむ。見慣れた夕希の自転車を見つけ、胸が熱くなった。

彼の目的が夕希なら、何らかの接触をしてくるだろう。今、脅かして引かせるよりもその方がいい。

 

警察沙汰にして、逮捕させ、二度と夕希の前に現れないでほしいくらいだ。

ちらりとスーツの袖の下の腕時計を見る。ちょうど、閉店コールが掛かる頃か。夕希が出てくるまではあと30分弱ある。

夕希が自転車で出て来た時、さっきのベンチに男の姿はなかった。何処かで待ち伏せしてるのだろうか。当然ながら、自転車の夕希は淳弥に気づくことなく、さーっと坂道を降りていく。

このまま何もなければいいのか、何かあって欲しいのか。

 

ざわつく気持が歩調に乗り移る。じっとしていられなくて、自転車の轍が見えるかのように、その軌跡を追いかけた。

 

 

坂の中腹まで降りた時だった。

 

 

ガッシャーンと自転車の倒れる音。そして…「きゃあ…っ」と夕希の悲鳴が真夜中の静寂を切り裂き、そしてすぐに消えた。

(夕希ちゃん…っ)

もつれそうになる足で駆け、震える指で110番通報をした。走りながら、夕希の無事を祈りながらする通報は、まったくもって要領を得ていない。それでも、GPSで場所を、淳弥の様子でただならぬ事態だというのだけは察してくれたのだろう。

出てくれた警察の人は「すぐに現場に向かいます」と力強く約束してくれた。

 

少しだけ安心して、淳弥自身も急ぐ。坂道に夕希の自転車が投げ出されていた。その脇の図書館の敷地に淳弥は躊躇いなく入っていった。

 

 

「夕希ちゃん夕希ちゃん夕希ちゃん…っ」

祈るような思いで、彼女の名を呼ぶ。本館裏手の駐輪場の近くの外灯の下、人の影が僅かに映る。建物の壁からこっそりと窺うと、夕希は口にガムテープを貼られ、後ろ手に縛られてるところだった。

(あの野郎、夕希ちゃんに何を…)

 

かぁっと頭に血が昇り、何も考えずに、彼の前に飛び出していった。腰にタックルして、向こうが驚いたところで、馬乗りになって、顔を何発も殴りつけた。襟元を掴んで、引きつけては彼の後頭部を地面に叩きつけると、男は脳震盪でも起こしたのか、動かなくなった。

 

 

夕希は大きく瞳を瞠って、そんな淳弥の姿を捉えている。男が動かなくなってから、夕希の方に近づいて、ガムテを外して、夕希の拘束を解いてやる。

 

「じゅ、んさん…どうして…っ」

 

恐怖と驚きに揺れる瞳。久しぶりに会えた喜びと、無事で良かったという思いと、怖い目に遭わせてしまった申し訳なさ。いろんな思いが、淳弥の胸に去来し、彼自身もうまく言葉を紡げない。

声よりもまず、手が出てしまった。夕希の震える身体を抱きしめる。

「…よかった…、夕希ちゃん…ごめん、ごめんな」

淳弥に暖められたことで、凍結していた思いが解け出したかのように、夕希の瞳から涙が頬を伝っていく。

 

「淳さん…」

恐る恐ると言った感じで、夕希は淳弥の背中に手を回す。けれど、次の瞬間、淳弥が背中に感じたものは、夕希の小さく暖かな手のひらではなく、冷たい鋭い刃だった。

 

「淳さんっ!!!」

 

夕希の断末魔のような悲鳴が、淳弥に漸く、自分の身に起きたことを知らせる。

 

呼吸さえも止まったかに思える衝撃のあとで、生ぬるい夥しい血液が体内から流れ出る。

(俺、死ぬのかな…)

夕希ちゃん庇って死ぬんだったら、それも悪く無いかも。少しくらいは罪ほろぼしになるだろうか…。

 

そんなことを思いながら、淳弥は夕希の肩に倒れこむ。一緒に倒れ込みそうになりながらも、夕希は淳弥の身体をひしと抱きしめたまま、放そうとしなかった。

「淳さん淳さんっ。やだあ、こんなの…っ」

夕希の叫びと一緒にパトカーのサイレンが響き、静かなはずのこの街の夜は、朝まで騒々しくなった。

 

 

 

 


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