淳弥side #2


 

夕希と別れた後、ひとり自宅に戻った。

 

「お帰りなさい」

淳弥の帰宅を待ち構えていたように、麻衣香が声を掛ける。

「ただいま」

久しぶりに交わす夫婦の挨拶をし、淳弥は洗面所で手を洗う。その後にまで、麻衣香はついてきた。

「もう、いいの?」

「ああ」

「せっかくこんなところまで来てくださったのに、何もしないで帰しちゃったの? おもてなししたかったわ」

 

君がなにもしないのが、彼女には、いちばんのおもてなしだと思うけど。

麻衣香の無神経な悪気のなさに、うんざりしながら、淳弥は「気にしないでいいよ」と返した。

「そう?」

麻衣香はまだ納得行ってない表情だ。このまま彼女が引き下がるとは思えない。妻の性格をイヤと言う程知ってる淳弥は既に逃げ出したい気持ちに駆られた。

「――隣に彼氏、いただろ? 旅行のついでなんだ。だから、平気だって」

我ながら呆れる程に淀みない嘘を並べる。恋人にも、妻にも、嘘を吐きまくって、弥縫策ばかり。うんざりするけれど、それもこれも自ら蒔いた種だ。

 

そして、麻衣香にだけは知られるわけに行かないのだ、彼の嘘を。

 

「ああ、そういうこと?」

唇の下に指先を当て、麻衣香は漸く納得の姿勢に入る。このまま、何も疑問を持たず、流して欲しい。淳弥が抱いた願いは、しかし、麻衣香の次の一言で帳消しにされた。

「でも、潤くんのミスのために旅行中なのに、寄ってくれたんでしょ? あー、やっぱりもやもやする。ねえ。交通費くらい持ってあげた方がいいわよ。連絡先教えて? お礼とお詫びしないと」

男の人って、ホントこういうのダメなんだから。と、麻衣香は淳弥にダメ出しをしながら、自分の手帳を持ってくる。

 

(お前がもやもやなら、俺はヒヤヒヤだよ)

心の叫びを、けれど淳弥は言うことなんて出来ない。元々火のないところに煙を立てるような女だ。

自分の正しさと愛情だけをひけらかし、常に自分が優位に立とうとする。いつだったか言っていた、『淳くんは優しいから好き』って言うのは、恐らく彼女のいうことをよく聞くから好き、と同義なんだろう。

結婚前からの仕事を続け、子どもは妻の実家に預かって貰える。食事も掃除も麻衣香は完璧にこなすし、人付き合いもうまい。

 

傍目には非の打ち所のない妻だ。

(結婚してから、その窮屈さに気づいても、もう遅い)

 

子どもはすくすくと成長し、家も戸建てを妻の実家の近くに35年ローンで買ってしまった。まるで牢屋みたいに思える雨も風も通さない強固な家から、淳弥が出て行きたいと思ったのは、結衣が生まれて、1年もしない頃だった。

 

 

「いい、つってんだろ」

彼女に教えられるわけがない。糸井夕希の連絡先なんて。

苛立っていた淳弥は、つい声を荒げてしまう。

突然上がった夫の怒声に、麻衣香はびくっと身体全体を震わせた。

 

 

「あ、ごめん…」

怯えた瞳で自分を見る妻に、淳弥は咄嗟に謝った。

「ううん。淳くん、寝不足なんじゃない? ここまでずっと運転してきたんだし。少し休んだら? 夜は、淳くんの好きなもの沢山作るね」

麻衣香はそう言って笑顔を作る。

「いや、夜は会社の伊藤先輩と飲む約束が…」

久しぶりにこっちに帰ってきたのだから、淳弥にも会って行きたい人はいる。上司兼先輩兼飲み友達の男の名を出すと、麻衣香はみるみる顔を曇らせた。

「えー。せっかく帰ってきたのに? 淳くん、わたしの手料理恋しくないの? もう冷蔵庫、淳くんの好きなもので満タンだよ」

「あー、そうなの? 困ったな、どうしよう、それは明日じゃダメなの?」

週末と有給を使って取った早目の夏休み。淳弥は1週間程、ここに滞在する予定だ。

「でも、食材に拠っては鮮度が…あ、そうだ」

「ん?」

「伊藤さんにもうちで飲んでもらったらいいじゃない。そうしたら淳くんは私の手料理食べられるし、私は食材腐らせないで済むし、伊藤さんは安く飲めるし、一石三鳥」

グッドアイデアだと、麻衣香は手を叩いて自画自讃する。

 

実際、麻衣香のいないところで話したいこともあったのだが、こうなってはもう淳弥に口をはさむ隙はない。何だかんだと理屈をこねられ、麻衣香の思うとおりに押し切られるのがオチだ。

「君は大変じゃないの?」

「全然平気。淳くんのためだもん」

 

そう言って麻衣香は二の腕をぽんと叩いてみせる。

 

 

“淳くんのため” 

妻を裏切ったという良心の呵責が淳弥の胸をチクチクとさした。

 

 

 


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