淳弥side ♯7


 

「そういえばさ、今朝方…」

伊藤が言いかけた時だった。

「じゅんくーん、伊藤さぁーん。ビールおかわりは?」

いつの間に窓際に立ってた麻衣香が、缶を片手に淳弥たちに呼びかけてきて、淳弥は背筋がぶるっと震えた。千里眼、地獄耳。麻衣香のためにあるような言葉だ。

 

 

(…今のまさか、聞いてないよな…?)

伊藤と目を合わせると、伊藤も右手で遠慮してるので、ビールのおかわりは辞退した。

 

(今朝方…と、伊藤は口にしていた)

次に麻衣香が切り出しそうなことはわかる。糸井夕希という女性社員が、東京にいるのかどうか、だろう。

その場凌ぎの嘘を麻衣香が鵜呑みにして、放置しておくわけがない。

 

 

「伊藤さん…飲み直しに行きませんか?」

淳弥が誘うと、伊藤は意外そうな顔をした。

 

「俺は構わないが…いいのか? せっかく帰ってきたのに。麻衣香ちゃん、寂しがるだろ」

「大丈夫ですよ」

もともと伊藤と外で飲む予定だったのだ。こっちは1回譲ってる。

また迷惑を掛けることになる。心苦しいが、けれど、伊藤の協力は必要だ。

「今からまた行くの?」と渋る麻衣香を家に残し、淳弥は敢えて隣の市の伊藤の家の近くで飲もうと提案した。

 

淳弥たちの他は、誰もいない小さなバーで、キールを注文した伊藤に対し、淳弥はノンアルコールのカクテル。

 

 

「おいおい、飲み直すんじゃなかったのかよ」

からかう伊藤に構わず、淳弥は真顔で言う。

「伊藤さんに話したいことがあって…」

「おう、なんだなんだ。東京でパワハラでも受けてんのか?」

 

深刻な淳弥の話を少しでも明るく受け止めようとする伊藤がおかしい。

 

 

「いえ、俺の話なんですけど…」

何処から話せばいいのか、やっぱり出会いからか。淳弥はゆっくりと思い出していた。

彼女に会った日のことを――

 

 

自ら望んで、見知らぬ都会に身を置いて5ヶ月。

 

 

呉の街を離れ、ごちゃごちゃした街並みと路線図。漸く間違わずに会社まで行けるようになった頃だった。

 

 

淳弥のアパートから最寄りの駅のスーパーで、夕希に会った。急に雨が降ってきて、淳弥は折りたたみ傘を短く畳み、スーパーのカゴに突っ込んだまま、買い物をしていた。缶ビール1本と黒塗りのプラスチックにいれられたお弁当。その日は、雨が降ったせいか、すでに半額シールが貼られてた。

 

何気なく並んだレジの女の子は、にこっと笑うと出来るエクボが可愛かった。

「いらっしゃいませ」と挨拶してから、彼女は少し眉を曇らせてから、まず淳弥の傘を手にした。合計で500円にも満たない買い物。所要時間も10分足らずだろう。別に濡れても構わないや、と淳弥が無造作に入れた傘を指先が濡れるのも厭わずに、ビニルの袋に入れて、ハンカチで指を拭ってから、弁当をスキャン始めた。

細やかな気遣いが嬉しくて。

「ありがと。助かるよ」

思わず言うと、女の子の方が驚いた顔をした。それからちょっと恥ずかしそうに、「お弁当濡れちゃうと思って」と付け足す。

 

(いとい、さんて言うのか…)

女の子の名札を見て、淳弥は確かめる。

感じのいい店員だな。帰り際に雨に降られ、嘆いた運は、このことで帳消しになった。

 

そして、次の日の朝、また淳弥は彼女に会ったのだ。

坂道を力強く漕いで、自分を追い抜いていく赤い自転車。さっと見た横顔は、昨日の女の子だった。

 

 

(…家、近いのかな。こんな朝早く何処行くんだろう…)

向こうは全く気づかなかったけれど、呆然とその後姿を見送った。

 

 

次の朝も、彼女に会った――というか見かけた。

 

深夜まで働いているのに、次の日の朝はまた颯爽と自転車で自分を追い抜いていく。彼女の姿に自分も勇気づけられる。

 

 

「いとちゃん」って気安く呼んでも、彼女は嫌がらなかったから、何か話題を見つけては話しかけた。

 

 

下心はゼロじゃないけど、イチもない。望んで出てきたとは言え、知らない街で孤独な淳弥には、彼女がレジをやってたり、時間がないのか、全速力で自転車をこぐ姿。

 

(ああ、あの子も頑張ってるんだ…)

 

そう思うだけで、自分の背筋も伸びる気がした。

 

 

家に帰ると、麻衣香から手紙が来ていた。

結衣の幼稚園の入園の様子だ。すまし顔でぶかぶかの制服を着てる娘の姿に目を細めて、さっき買ってきたビールを喉に流し込む。

麻衣香の手紙はさらっと目で追うだけで、そのままごろんと床に寝転んだ。こっちに来たその日から、淳弥は結婚指輪を外してる。

家族でいることに息が詰まって出てきたのに、ひとりでいると寂しいから、つい心が揺れてしまうのだろうか…。従業員として、分け隔てない優しさだと知っているのに。

 

(…わかってるよ、麻衣)

お前達を忘れたいわけじゃないんだ…。

 

 

スーパーの店員と顔なじみになるなんて、淳弥には初めての経験だった。それはそうだ。広島にいた頃は、買い物なんて麻衣香任せで、牛乳一本の値段すら知らなかった。

 

「いらっしゃいませ」のあとの「こんばんは。今日も遅いですね」なんて、夕希の何気ない会話にほっとして、ちょっとだけいい気分で家路を辿る。向こうに家庭がある身だって、その程度の心の揺れは許されるだろう。

顔見知り以上の何かを、淳弥は求めていたわけではなかったのに、ある夜…。

 

 

「…疲れちゃった…」

 

店の前でそう呟く夕希の姿を見てしまったら、放っておけなくなった。

頑張って無理をして、無理やりぴーんと張っていた糸が、ついに切れてしまったかのような呟き。

 

「いとちゃん?」

「あ…」

淳弥が彼女の名を呼ぶと、夕希は咄嗟に焦った顔をした。夕希の心は手に取るようにわかった。弱音を吐き出されたのを聞き咎められ、しかも相手の名前もわからない。

 

「あ、俺、峰って言うの、峰淳弥(じゅんや)。ちょっと歌手っぽくない? 演歌系の」

彼女の困惑を慮って、先走って自己紹介すると、青ざめた頬が少し緩んだ。

 

「…やだ」

(あ、笑った)

 

表情に明るさが戻ったのを確かめ、淳弥はほっとする。聞けば、貧血気味で勤務中に倒れてしまい、早退することになったのだという。

外は雨。体調サイアク。どんなに強い子だって、愚痴のひとつもこぼしたくなるものだ。いつも勝手に励まされてるばかりの自分が、何か夕希に出来ないかと考えて、淳弥は思わず言っていた。

「いとちゃん。家、何処? 送っていくよ」

「え?」

当たり前だが、夕希の表情には安堵と困惑が同時に浮かんでる。そりゃそうだ。顔なじみ程度の客に、送られたりしたら、自宅まで知られることになる。何があるのかわからない物騒な世の中だ。

 

「じゃ、送るよ。こんなおじさんと相合い傘じゃイヤ? あ、名刺わたしておく。うん。オジサンが悪いことしたら、この会社に通報していいよ。勿論しないけど」

「え、え、え」

 

名刺を渡して早口にまくしたてると、夕希も少し安心したのか、警戒心が解ける。

 

「…い、いいんですか?」

「いいよ、どうせ帰ってひとりで値引きの弁当食いながら、スポーツニュース見るだけだから」

 

 

ふたりでひとつの傘に入って、他愛無い会話をしながら歩く。ひとりだと長く暗い坂道が、共に歩む誰かがいると、全く苦に思えない。

その後、渡した名刺からたどり着いたのだろう、淳弥の元に夕希からのメッセージが入って、1日に何度かやりとりするようになる。

 

この時はまだ麻衣香を裏切ってるなんて、微塵も思っていなかった。

 

 

 


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