淳弥side ♯9


淳弥の告白に、夕希も自分も淳弥が好きだと答えてくれた。

「俺、いいのかな? いとちゃんにこんなことして」

ずるい自問を投げかけながら、柔らかい唇に唇で触れる。広島とここは遠い。800キロ近くある距離ならば、麻衣香だって簡単には淳弥の動向も心の中も掴めないだろう。バレっこない。高を括った思いが、淳弥を大胆にさせる。

 

「…あんなことあったあとじゃ、ひとりで家にいるのイヤでしょ…うちに来る?」

そのまま淳弥は夕希を自分のアパートに連れて帰った。腕枕をして、洗い髪に優しく触れる。…麻衣香にはもうずっとしていないしぐさだ。

 

「なんか、不思議です。峰さんとこんな風にしてるの?」

「…イヤ?」

「イヤじゃないです。そんなわけ、ないじゃないですか」

「いとちゃん、可愛い」

まだ乾き切っていない前髪をかきあげて、淳弥は夕希の額にそっと唇を落とす。

 

「いとちゃん、俺…」

言わなきゃ。結婚してるって。妻も子どももいるって。だから、本当は君にこんな風に触れちゃいけないって。

淳弥の迷いを察したように、夕希は不安げに淳弥の頬に手を伸ばす。

「……峰、さん?」

たった一言で、彼女の自分へ向ける視線は、豹変してしまうのだろう。せっかく好きだと言ってくれたのに。またしても、臆病なズルさが淳弥の言葉を消していく。

「お休み、いとちゃん」

 

タブーだとわかっているのに、ダメだと思うから余計に拍車がかかるのか。淳弥は夕希に惹かれていく。急速に。深く。

 

 

自分が自分が、の麻衣香とくらべて、夕希はひどく控えめだ。それでいて、時折見せる大胆さに、はっとさせられる。

 

 

何処からが引き返せない道だったんだろう。

 

 

もうひとり自分がいればいいのに。

広島の自分の生活とは別に、もうひとつの世界がここにあればいいのに。

淳弥はそんなことばかり、考えるようになっていた――。

 

 

 

~☆~★~☆~★~☆~

 

 

ここまでの淳哉の回想を聞いて、伊藤は大きく息を吐き出して、眉を顰めた。

 

「お前さあ…誠実さの欠片もないよ。それじゃ。麻衣香ちゃんにも、その女の子にも。もしかして…一線越えちゃったの?」

普段はダイレクトな言葉ばっかり選んで、下ネタだって、女子社員が引くほど言ってるのに、こんな時に妙に文学的な表現をしてくる伊藤が可笑しい。淳弥は思わず、くすりと笑いを漏らす。

「お前なあ、俺は真剣に…。ったく、酔いどれ気分が、お前の話のせいで台無しだよ」

「すみません」

軽く淳弥は謝って――そして、今朝のことを思い出していた。

 

 

「バチが…当たったんですよね、天罰です」

 

 

 

長い長い1日を淳哉は思い出していた。

すごく遠ざかった時間のように思えるけれど、あれからまだ半日しか経っていない。

 

家の門扉越しに、夕希の姿を見た時、淳弥は全てが終わったのを悟った。

「いとちゃん」

そう呼ぶと、夕希は悲しそうな顔になった。淳弥の隣には麻衣香がいて、夕希の隣には――上條と言ったか、夕希の学友だと名乗った青年が立っている。こんなシチュエーションでは、夕希に伝えたいことの半分も、いや、真実なんて、何ひとつ言えるわけもなかった。

「あら、知り合い?」

「会社の事務の子なんだ」

夕希の素性を偽ると、夕希は傷ついた表情を見せる。

「あ、じゃあ上がってもらわないと」

「いや、いいよ。僕が忘れた書類を届けにきてくれたんだろう。君は結衣と家に戻ってて?」

 

麻衣香を強引に家の中に戻す。玄関のドアまでのほんの数メートルの間に、ちらちら夕希を振り返る麻衣香の視線が鬱陶しかった。さっきの淳弥の言葉など、麻衣香が鵜呑みにしたとは思えない。

 

夢は終わってしまった。だから――あと、淳哉に出来るのは、麻衣香から夕希を守ることと、この嘘まみれの恋を、嘘のまま終わらせることだった。

 

 

「こんな処まで…ルール違反だよ、夕希ちゃん」

「だったら…淳さんだって、ずるいです。私に本当のこと、教えてくれなかった…。奥さんも子どももいたなんて」

「聞かなかったじゃん」

 

悪いのは自分なのに、夕希に責を被せるように言う。

 

 

「あんた…」

夕希の代わりに気色ばんだ上條という友人を、夕希は窘める。

「少し…ふたりで話したいです」

逆の立場なら、麻衣香ならどうしただろう。こんな状況に陥ってさえ、落ち着いていて、そして淳弥をかばってくれる夕希。彼女の優しさが、やっぱり好きだ。惚れなおしたって、もう何にもならないのに。

 

一旦、家に車をとりに戻って、夕希を乗せて港近くの駐車場に止めた。瀬戸の海は波もなく穏やかで、対岸もはっきりと見える。静かに…それでいて、しっかりと相手の姿を見つめ合える。そんな家庭を夕希とだったら築けたのだろうか。

 

いつか一緒に見れたらいい、と交わした約束が、ふたりで見る最後の光景になるとは思わなかったけれど。

「峰麻衣香さんて…淳さんの奥様ですよね? 結衣ちゃんはふたりの間のお子さん…間違いないですよね?」

裁判の冒頭陳述みたいだな。淳弥はそんなことを思いながら、夕希の問いかけに頷いた。改めて告げる真実に、夕希はまた表情を硬くした。

「袋からスプーンでシリアル食べて、淳さん怒る人って…奥様のことですか?」

淳弥が何気なく言った台詞も、夕希ははっきりと記憶してるらしい。

「彼女はしっかりしてるからね。仕事をしてるのに、家事も完璧。家は、いっつも綺麗だし、料理もうまい」

「そんな理想的な奥様がいるのに、どうして…っどうして私なんか」

ついに感情を抑えていられなくなったのか、夕希の瞳に涙が滲んだ。彼女はいつも限界まで堪えてから泣く。美しく儚いそのしずくを、拭う権利は淳弥にはもうない。

「…麻衣は妻としては申し分ないけれど…。女性として愛せるか、って言ったら、ちょっと違うんだ。それに単身赴任で寂しかったから、かな? 夕希ちゃんといる時はこっちの家族のことなんて忘れてた。パラレルワールドみたいに、東京と広島。ふたり俺がいればいいのに…って、何度も何度も思ったよ」

 

自分でもあきれるくらい、身勝手な意見を並べると、夕希の顔は絶望に満ちたものになる。そうじゃなくて、彼女に対する謝罪とか、奥さんに対する良心の呵責とか。最後、夕希が淳弥に求めているものは、そういう誠実な対応だとわかっていて、わざと逸らした。

 

そもそも誠実な人間だったら、最初から不倫なんかしないし、夕希にも最初に打ち明けている。

 

 

(最後だけ誠実になったってそんなの…結局自己満足でしかない)

徹頭徹尾、淳弥はサイテーな男だったのだ。この恋は間違いで、夕希は騙されただけの被害者。そう、夕希に信じこませたかった。

「…日本の法律は妻以外に恋人を持つことは禁じてます。生涯、奥さんを愛して守っていくのが、いい男の人だと私も思います」

「俺はずるくて弱い。サイテーの人間だね。…けど、夕希ちゃんのこと、本気で好きだったよ」

 

最後にひとかけだけ真実を織り込むと、夕希の瞳に漣が立つ。静かに瞼を伏せて、涙を押し流すと、夕希は言った。

 

 

「…さようなら…」

 

 

夕希と別れ、家に戻ってきたあとのことは、よく憶えていない。

 

 

麻衣香があれこれ聞きたげだったが、夜通しのドライブで疲れたから…と言って、仮眠を取るふりをして、ベッドに潜り込んだ。

 

 

 

 


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