琢朗side ♯2


 

 

彼女の身に、どんな悲しい出来事が起きても、時間は淡々と流れていく。司法試験の日程は変わらないし、学校だってスケジュールどおりだし、バイトだって、彼女がいなければ穴があいてしまうのだ。

 

広島から戻ってきて二週間も経っていた

 

無表情で学校に来て、無心に試験の勉強に勤しむ夕希は、そうすることで淳弥のことを考えずにいるように、琢朗からは見えた。必死になって、その存在を脳から追いだそうとするということは、まだ全然忘れてないということに他ならないのだけれど。

 

痛々しくさえ見える彼女を、それでも琢朗は見守るしか出来ない。しかし、天は彼女に更なる試練を与えた。

 

 

連日暑くって、毎日熱中症患者が何人出ただの、全国でその日いちばん暑かったのはこの街で、その記録は何度まで上がっただの。そういったニュースが毎日のように放送されるようになったある日。

 

いつものように琢朗が教室に入ると、最後列のはじっこの席で、机に突っ伏してる夕希の姿が目に入った。

 

 

「糸井さん?」

 

肩から提げてたショルダーバッグを彼女の机の横に置き、琢朗は夕希に話しかける。夕希はだるそうに首だけを琢朗の方に向けた。

 

 

「具合悪いの?」

「…平気…」

 

平気そうに見えないから言ってるのに。

 

夕希の遠慮を無視して、琢朗は彼女を医務室に連れて行く。貧血と偏頭痛。看護の先生が処置した薬を、夕希は頑なに拒否した。

怪訝そうな顔をしながらも、看護の先生は夕希に少し休んでいくように言って、自分は部屋を出る。

 

 

カーテンで仕切られた狭い空間に、夕希とふたりだけで取り残される。琢朗に背中を向けたまま、夕希はか細い声で言った。

 

「…私、淳さんの子ども、妊娠してる…どうやったら生めるか、この間からそればっかり考えてるの」

「ば…か…なの? 糸井さん」

 

彼女が告げた言葉に、思わず琢朗は口走っていた。何かにつけ、直情傾向で思ったことを口にしてしまうのは、彼の悪い癖だ。罵倒された彼女は、けれど、にっこりと笑ってみせた。

「わかってる。特に上條くんはそう言うと思ってた」

 

 

自らの人生に多大な影響を与えるっていうのに、どうしてこういう時女性は感情に走るのだろういや、違うのだろうか。感情的になっているのは、俺の方か?

糸井夕希は、上條琢朗の法科大学院のクラスメートだ。友人でしかない。そんな自分が彼女にあれこれ言える立場ではないのは、琢朗だって百も承知だ。けれど、お節介だと煙たがられようと、僭越だと罵られようと、このまま黙って彼女の決断を見過ごすことなんて出来ない。

父親にその存在を伝えられない子どもを生もうなんて言う決断は。

 

 

俯瞰的に自分を眺め、冷静さを取り戻してから、琢朗は再び夕希の説得を始める。

 

 

試験

「え?」

「司法試験どうするの。あと、1年ないんだぜ? 赤ん坊抱えて受けるつもり?」

「…それは…」

琢朗が夕希の腕を掴んで問い詰めると、夕希も困ったように目を泳がせた。出産と子育てと。両立出来る程、司法試験は甘くない。

 

「私にやれるだけのことはやる」

「落ちるに決まってるだろ。何が出来んのさ。でっかい腹抱えて」

「まだ大きくなってないもん」

「そういう問題じゃねえだろ? 何で生むなんて決意出来んだよ。頑張ってきたこと、全部無駄になるんだぜ、あんな男のために」

夕希の肩を揺さぶって、琢朗は正論と自分の本音をぶつける。気まずいのか、夕希は琢朗から目を逸らした。

「でも…あかちゃん殺せないよ…」

悩みに悩んで、出した結論がそれなのだろう。宿る命に罪はない。夕希の気持だって、全く汲めない琢朗ではない。けれど。


「堕胎は殺人じゃないよ」

しかも、妻帯者だったなんて知らなかった男との間の、意図せぬ妊娠。糸井夕希にだって、罪はない。

 

「糸井さん、このあと暇?」

「…うん」

夕希が頷くと、琢朗はちらっと腕時計を気にする。

「ちょっと付き合ってもらいたいところがあるんだ」

 

夕希の手を引いて、琢朗が歩き出すと、夕希はつんのめりそうになりながら、ついてきた。

 

 

琢朗が夕希を連れて行ったのは、大学と琢朗の最寄り駅だと言った駅のちょうど中間に当たる街の中にある病院だった。悠に10階以上はありそうな高いビルは、真っ白で清潔感を通り越して、威圧感さえ覚えさせる。受付を素通りして、琢朗はいつものようにエレベーターに乗り込んで、8階のボタンを押す。

 

 

「上條くん…」

何の説明も加えずにこんな場所に連れてきたからか、夕希は訝しげに琢朗に呼びかける。もしかしたら、自分が診察されると恐れてるのかもしれない。

「身内が入院してるんだ。って言っても、今日糸井さんに会って欲しいのは、別の人なんだけど」

琢朗の答えに、夕希はそれ以上口を挟まなかった。足音の響く程静かな長い廊下を、無言で進む。面会の終了時刻が迫ってるせいか、人けは少ない。

 

フロアのいちばん奥の病室に入ると、消毒薬の匂いが今日はやけに鼻についた。

 

 


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