琢朗side #4



憲法、刑法、民法、商法、民事訴訟法、治罪法典。司法試験に受かるためには、遍く習得しなくてはならない経典であり、知識だが、最近の琢朗は民法ばかり集中して学んでいる。


民法の、それも不貞行為についてばかり。

なんとかして、峰淳弥から慰謝料を取れないか、そんなことばかり考えてしまう。けれど、ヘタしたら、夕希自身も訴えられかねない、諸刃の剣だ。

けれど、峰淳弥をこのまま放置なんてしておきたくない。彼には、夕希とお腹の子どもへの父親として果たすべき義務があるはずだ。


けれど、被害者のはずの夕希は淳弥を責めることを望んでない。仮に琢朗が弁護士だとしたって、クライアントの希望とかけ離れた訴訟なんて起こせない。

そして、琢朗の立場では、峰淳弥を訴えることは出来ないのだ。

幾つもの教科書とノートの上で、前のめりに突っ伏した。


(ばかだよなあ…糸井さん)

くしゃっと前髪を握って、ノートに頬をぴたりとくっつけると渇いた笑いが漏れた。


もっと聡明な女だと思ってたのに。


講義での発言や討論の様子から、糸井夕希には一目置いていた。羨望とライバル心を同時に抱いてた。それが、いつの間にか慕情までくっついてきて…。

『同意書ならいつでも書くよ』

嫌われるとわかってて、あんなこと言うなんて…。

「俺も、ばかだけど…」

見込みなんて何もないとわかってるのに、それでも彼女が気になってしまう。



いつの間にか琢朗は突っ伏して眠っていたらしい。

がさごそと玄関の方で音がして、はっと目が醒めた。開きっ放しの玄関の隙間から覗き見ると、芙美の姿があった。

「…何しに来たの」

琢朗は芙美に尋ねる。寝起きの不機嫌な声そのものだったが、いつもそんな調子だからか、芙美は別段気にした様子もなく、勝手に冷蔵庫を開けて、琢朗が買ってきた缶ビールにそのまま口をつけた。

「どうしたの」

芙美らしくない。そもそもビールは余り好きではないはずだ。父の愛人の酒の嗜好まで知ってる自分に、嫌気がさす。

「別に。飲みたい気分なの。でも、ひとりで飲むのは嫌だから」

そう言って、芙美は琢朗の前の席――父の席――に倒れこむように座った。

だからって何もここで飲まなくてもいいじゃないか。琢朗の思いは憮然とした表情に出ていたのだろう。缶ビールを勢いよく煽ってから、芙美は自嘲気味に笑った。

「他に行くとこなんてないのよ、私。実家も友達も捨てたも同然だからね」

「……」

それは不倫という道を貫き通したからだろうか。

大嫌いな女だが、いつになくしおれてる彼女に、更に塩を塗りこむようなことはしたくなかった。テーブルの上に並んだ琢朗の難しい本に視線を落として、芙美は言う。

「今日ね、先生に『別れよう』、って言われちゃった。芙美は、もう好きなことしていい。って」

笑いながら言う芙美の瞳にきらっと涙が光った。父がそんなことを…琢朗は意外な思いに打たれる。父が彼女と別れるとは思わなかったのだ。母に詰られ、息子に蔑まれ…家庭を壊して、それでも手放さなかった女なのに。


「サイテーでしょ、あの人。散々私の人生振り回して。まあ、私も琢朗くんの家、めちゃくちゃにしたから、おんなじだけど。うん。同罪。悪い男で悪い女。なのに。最後だけ、あの人、善人ぶるのよ、笑っちゃう」

芙美の黒い髪が彼女の頬にはらりと掛かる。涙ぐむ…なんてものじゃない。芙美は本気で泣いていた。


恐らく琢朗の父自身も、余命を悟っているのだろう。この先、一緒にいても、彼女に何もしてやれない。だったら今のうちに、彼女を解放してあげたい。

愛してるから、手放す…。

「はっ、らしくねえな」

自分の父親のセンチメンタリズムに琢朗も失笑だ。いつも新聞で顔を隠すように、琢朗の向かいに座っていて、「うん」とか「ああ」とか聞いてるんだか聞いてないんだかわからない男が、最後に愛って。


「芙美さん、なんて言ったの?」

「冗談じゃないわ、同情だったら、御免こうむるわよっ、って」

がばっと顔を上げて、芙美は威勢よく啖呵を切る。

「あはは、そうなんだ」

「そうよ、当たり前じゃない。私は意地でも別れないんだから」

「愛じゃなく…意地、ね」

「そう」


夕希もそうなのだろうか。愛されていたという矜持から来る意地。そのために、損をしようが、周りを切り捨てようが…関係ないのだろうか。

わざわざ歩きにくい道を行こうとする彼女らの気持は、琢朗には解しかねる。


そして、峰淳弥の本心すらも、わからなくなるような事件が起きた。




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