琢朗side #5



「生む」と琢朗に宣言したものの、夕希の前には「現実」という大きな壁が立ちはだかった。自分の感情と熱意だけでは、どうにもならないと、夕希自身も気づき始めたらしい。



「引っ越しってお金、掛かるんだね…」

「そりゃそうだろ」

「…新しいアルバイトも、当たり前だけど、見つからなくって」

「妊婦はなかなか雇えないよね」


毎晩、教室の隅で交わされるのは、司法試験からは程遠い話題ばかりだ。

「上條くん、私のことばかだと思ってるでしょ」

疲れているのか、夜眠れないのか、隈の目立つ目で、糸井夕希は琢朗を見上げる。アテもないのに、峰淳弥に引っ越すなんて宣言するから。けれど、淳弥の思い出が残る場所にちいたくなかったのだろう。痛々しいったらない。


「そんな糸井さんを見捨てられない俺はもっとばかだから」

一瞬、驚いて見開かれた目は、また気まずそうに半ば伏せられた。

「……」

琢朗の言葉に、答えを探しあぐねた唇は、金魚みたいにパクパク開くだけで声は、出て来ない。

「…私、バイト行くね」

そして、逃げるように立ち上がった夕希の腕を、琢朗は掴んだ。

「糸井さん! ――うちに、来ない?」

この間から考えていた提案を、琢朗は漸く夕希の耳に届かせる。

「え…?」

だが、当然だが、夕希は戸惑って、立ち止まるだけだった。

「この間、見たろ? 親父は入院してるし、お袋はもういない。芙美さんは、別のとこに、ちゃんと部屋がある。今は、通いの家政婦さんがいるだけなんだ。糸井さんが好きに暮らせるくらいのスペースくらいは、あるよ。引っ越し代が貯まって、新しい家が決まるまで、うちにいたらいい」

「…そんな…」

ことは出来ない。夕希の唇は早くも、拒絶を述べようとしている。彼女の口が「NO」と言う前に畳み掛けた。

「同棲、じゃなくてさ。ルームシェア? 糸井さんの部屋には、俺は絶対入らない。キッチンや風呂トイレは共用。家賃は…食費くらい入れてくれればいいよ」

「だ、だって、上條くんのお父様名義の家でしょ? 勝手なことできないよ」

「じゃあ、親父に聞いてみる」

ダメとは言わないはずだ。というか言う権利もないと恥じ入るだけだろう。まだ妻が存命だった頃から、余り家には帰らず、よその女の家に入り浸っていた男なのだから。

琢朗の強引さに、夕希は更に困惑した顔になる。


「上條くんはどうして私に…優しくしてくれるの…?」

「…理由言っていいの? それ」

未だに言えずにいる夕希への気持。そして、夕希を芙美みたいな女にはしたくないという願い。

言ったところで、今の夕希に受け入れる隙間などありはしないくせに。

意地悪く笑って言うと、夕希は律儀に首を左右にブンブン振って、「ダメ、いい」と拒む。琢朗の好意に気づいていながら、何の良心の咎めもなく、すぐに上手い話に乗ってこないところが夕希らしいが。

(…ホント、わかりやすくて、残酷な女)



次の日、琢朗は父の元を訪れた。

「茶飲む? 暑いから、売店で冷たいの買ってこよっか」

ぎこちなく父を気遣おうとしたら、父にはとっくに目的を見ぬかれていた。

「そんなことはいいから、座ったらどうだ。何か話しがあるから、来たんだろ?」

「……」

仕方なく琢朗は、ベッドの脇に備え付けてある、ドーナツ型の丸い椅子に腰掛ける。薬と汗の匂いが、琢朗の鼻を掠めた。ここに座ると、否が応にも、父の病身と対峙せざるを得なくなる。


寝乱れたままの髪、痩せてこけた頬、張りのない肌、生気のない目、無造作に伸びたままの髭。在りし日の姿と全く違う、父の姿を目の当たりにするのが嫌だった。

琢朗は芙美のように、父の病を受け止め切れていない。見舞いに来ないのも、半分は父への反発だが、半分は父の病が進行してる事実を、確認しにいくようで嫌なのだ。


「俺が見舞いなんて珍しいもんな。何かあるって勘ぐりたくもなるよな」

「そうじゃない。お前はいつも、俺に話がある時は、俺と目を合わさないんだ」

自覚してなかった事実を鋭く指摘され、琢朗は小さく息を呑んだ。

「まとまった金でも欲しいのか?」

生活費は気が付くと、琢朗の口座に振り込まれている。家賃や光熱費を払う必要のない大学生の食費と遊興費にしては十分すぎるくらいの額が。

「ちげーよ。親父に頼みがあって…この間、来た女の子、いただろ? 糸井夕希って言うんだけど。彼女も俺と同じで、弁護士目指してて…。でも、学費苦しいみたいでさ。ルームシェアみたいにしたら、家賃分だけでも楽になるから、うちに誘ってみようかと思ってるんだけど」

夕希の窮状だけを訴え、彼女との本当の関係は言わなかった。父も聞いてこなかった。

琢朗の話を聞き終えてから、父は心持ち口角を左右に上げる。琢朗が久しぶりに見た父の笑顔だった。

「…お前が、女の子と暮らしたいなんて言ってくるとは思わなかった」

「…うっせえな」

「林さんに迷惑が掛からないなら、好きにしなさい」

「わかった」



父の返事を琢朗はすぐに電話で伝える。夕希は直接琢朗に会って話したいというので、家の最寄駅まで来て貰って、琢朗は自宅に案内した。

マンションのエントランスに入った時から、夕希の態度は非常に落ち着きが無い。


「す、凄い立派なおうちだね」

どうやら気後れしてるらしい。部屋の中をきょろきょろ見回す夕希に、くすりと笑いかけながら、琢朗は、今は誰も使っていない母の部屋の扉を開ける。


「ちょっとまだ整理してないから、汚いけど、糸井さんが来るまでには綺麗に片しておくから」

「え、え、本当にいいの? 迷惑だったり、邪魔だったりしたら、すぐに出てくから。あと、家賃は出世払いってことでいいかな?」


(…水臭いって言うか、なんつーか…)

琢朗が呆れる程の遠慮深さで、夕希は琢朗の家に居候になることを決める。


「私ひとりじゃ、何も出来ないんだね…って、思い知った」

己の無力さを痛感したのか、ぽつりと言って、夕希は琢朗の前に一枚の紙を差し出した。




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