♯8


さっき私がしてあげたシャンプーの匂いが、鼻をくすぐる。酒井の腕の中にいると、認識したのは、その香りを嗅いでからだった。

ドキンと心臓が跳ね上がる。

「ちょ、あんた何して…」 

酒井のTシャツを掴んで腕を伸ばして、そこから逃れようとする。でも、酒井は私の背中にも腕を回して、一層強く抱きしめてきた。

「木塚って泣いてるとこ見られるの嫌いそうだから」

「だから泣いてないって何回言えば」

驚きすぎて、とっくに涙なんて引っ込んだ。そして、今私は酒井と接触してる胸の鼓動が、伝わらなければいい…と、そんな心配ばっかりしてる。 

 

どうしよう。ちっとも嫌じゃない…私、酒井が好きなんだ。こんな底抜けのばかでお人好しで、おせっかいで…。 

そして、ちぃを好きだった人が、好きなんだ…。

 

どうして、私はこうやっていつもいつも好きになってもしょうがない人ばっかり、好きになるんだろ。ちぃを好きだった人が、私なんか好きになるわけないのに。

  

宙ぶらりんになってた手を、酒井の胸板に押し当てた。スポーツやってることが、すぐわかる固くて厚い筋肉を確かめてから、腕を伸ばして、自分と酒井の距離を遠ざけた。 

「ホントごめん。今度埋め合わせするから、今日は帰って。ここ、片付けて、美咲さんちに鍵返しに行かないと」

「木塚っ」 

私との間に出来た距離を、酒井は再び詰めて、大きな手で私の二の腕を掴んでくる。 

「木塚、俺…」

こんなに真剣な顔の酒井は見たことない。そんな目で見られても、髪型が全然イケてないのが、笑えるというか、申し訳ないというか…。 

ダメだよ、酒井なんだから。そんな顔しないでよ。もっとおちゃらけて、ばかやってる方が、全然あんたらしいよ。酒井の次の言葉を聞くのが、怖い。こんなじりじりした瞬間、私達には似合わない。

逃げ出したい私の心を読んだように、エプロンの中のスマホが鳴り響いて、張り詰めた空間が一気にたわむ。

「…なんだっけ、この曲」

「アメイジング・グレース…」

「ああ…って何でそれ?」

「いーでしょ、好きなのっ」

「…出れば?」

「…うん」 

スマホの下部のピンクのライト…出なくてもわかる、昌也さんからの着信だった。

  

 

「七海ちゃん? まだ、店にいるの?」

「…え?」

「お店の灯りついてるの見えるから…今、駐車場にいるんだ」

「どうしたんですか?」

「七海ちゃんに話したいことあるんだ。最後にしたくないから、車まで来て欲しい…」 

スマホを耳に押し当てたまんま、正面の酒井を見た。…なんて、顔してんの? 出れば、って言ったくせに、不安げな酒井のカオ。

「わかりました。お店片付けたら行きます。もう少し待っててください」

静かに私は返事をした。昌也さんから誘われると、いつもざわざわそわそわしてた心が、今日は全く波打たない。

「またあいつ?」 

酒井は急に不機嫌になった。 

「うん。話したいことあるって…なんだかわかんないけど、行ってくる」

「木塚っ」

「これでもう会わないから」 

私はきっぱり言って、酒井の背中を押し出すようにして、店の外に追い出すと、ひとりで酒井の髪を箒で掃いた。黒黒とした健康そうな艶のある髪は、酒井そのもの。 

初めて、人の髪切ったんだよね…。あんたは伸びてきたら、すぐに忘れるだろうけど、私は忘れないから。 

ひとふさつまんだ髪をティッシュに包んで、ポケットの中に仕舞いこんで、床を綺麗に掃除した。器材を片付けて、ガスの元栓を切って、照明を落とす――いつもの手順で退店の処理をして、ひとりで店を出る。

最後にしたくないから。昌也さんはそう言ったけど、私は終わらせたい。最後にしたい。昌也さんとの関係綺麗に精算したからって、酒井が私を好きになってくれるわけじゃないけど。 

白いレクサスは、私が近づくと、中から助手席側のドアが開いた。運転席から腕を伸ばした昌也さんが、私の腰を抱いて、車の中に引きずり込む。

 

 

「七海ちゃん、久し振りだね」

車は、ゆっくりと商店街の裏道を走りだす。週末の夜、相変わらずこの辺りの道は、車の流れが悪くなる。 

停まってる時間の方が長い車内で、昌也さんは話を始めた。

「僕が別のお店に移動することは知ってるでしょ?」

「ええ」

「良かったら…なんだけど、七海ちゃんもお店変えない? あっちもアルバイト募集してて、僕ひとり当てがあるって言っておいたんだけど」

昌也さんの申し出は意外だった。

「お店変わったら、昌也さんは私なんかに興味なくすと思ってました」

「ひどいなあ。俺は俺なりに、七海ちゃん大事にしてるのに」 

右手で髪を掻きあげて、昌也さんはくしゃって笑う。その気障な仕種も、笑い方も、憧れてたはずなのに、今はちっとも心が動かなかった。

「…でもお断りします。私は今の店で満足してるので」

「もう、俺に会えなくなるよ?」

「昌也さん、私、昌也さんのこと好きでした」

過去形の告白でも、私はめちゃくちゃ緊張したのに、昌也さんはあっさりと言った。 

「知ってたよ? でも七海ちゃん、付き合ってくださいとか、面倒なこと言ってこないし、俺の誘いは拒まないし、すっごくやりやすいんだよね」 

恋心につけ込まれて、都合のいい女扱いされてて…。あーもう、悲しいって言うより、自分に腹が立つ。 

「私の話はもう、終わりなんで、降ろしてください」

そう言ったのに、ちょうど信号が変わって、昌也さんはアクセルを踏み込んで、十字路を左に進路を取る。渋滞の列から抜けて、車を加速させた昌也さんは、訝しげにバックミラーを覗きこんだ。

「…? あの自転車、何だろ。凄い勢いで、ずっとついてくるんだけど」

まさか、と思いながら、私は振り向いて、直接目で確認する。 

リアウィンドーに酒井の姿が見えた。



…う、うそぉぉぉぉっ。