I`m home


優しくされれば嬉しいのに、どうして優しく出来ないんだろう…


「あ~」

無情に過ぎ去ってしまったバスの背中に、安住茅夏(アズミチナツ)は、公道だということも忘れて、落胆のため息をこぼした。

別に行くアテがしかと決まっているわけじゃない。

予定があって、このバスに乗り遅れたからって、どうこうなるわけじゃない。

ただ、吐き出した息さえ白くなる程、寒い2月の夕方。大きなボストンを肩から提げて、周囲に何もない道で、時をやり過ごすのは虚しすぎる。

(次のバスは…げっ、30分後)

だから、田舎は嫌なのよ。

腕組みして、舌打ちしても、聞いてくれる者さえなく、夕日は茅夏の他にはビニルハウスに最後の輝きを落としていくだけ。


国道に出ればもう少しバスの本数あったはず。そう思って、茅夏は再び歩き出す。

アテはないけど、ぼんやり次のバスを待つのも、御免だった。

もしも、あいつが追いかけてきたら困るし。


自分に言い訳するように、彼女はカバンを抱え、足早に歩く。

けれど曲がり門で、彼女がたどった一本道をちらと横目に見ても、皮肉なくらい見通しのいいその道に、人影は何もなかった。

彼の姿がないことに、ほっとしたはずなのに、心に一陣の風が吹く。



夫、圭介とは結婚して8年。ケンカなんてしょっちゅうだ。


今日は、圭介の好きなアイドルのCDを、圭介が何枚も購入したことが原因だ。ジャケットの写真が違うだけなのに、複数枚買う心理が、茅夏には到底理解出来ない。

で、つい言ってしまった。

「私だって、買いたいものいっぱい我慢してるのに」

「我慢なんかしなくたって、買えばいいじゃないか」と夫は主張し、妻は彼の給料明細と、預金通帳の残高を見せつけて。

「何処にそんな余裕があるって言うの?」

と、やり返したから、後はもう坂道を転がる雪の塊のように、ふたりの怒りと罵倒は大きくなるばかりだった。


実にくだらない。振り返って客観的になってみれば、些細すぎること。なのにどうして、「出てく」「出て行け」そこまで、言って言わせる争いに発展してしまうのか。

(要は、お互いに思いやりがないんだよね)

前はこうじゃなかったのに、と思っても、いつからこうなってしまったのか、茅夏にはわからない。おそらく圭介にもわからないのではないか。

大学の先輩後輩だった茅夏と圭介は、お互い初めての彼と彼女。毎日会いたくて、会ったら1分1秒でも長く、そばにいたくて。

彼に送って貰う家路が、もっと遠ければいい、とゆっくりのんびり歩いたりして。

そんな可愛い時期もあったのだ。思い返すと、くすぐったくて、だけど大事な記憶。

結婚して一緒に暮らすことは、ふたりの夢がかなったのではなく、ふたりの夢を破壊してることだなんて、思いたくないのに。


茅夏と圭介の緑色の三角屋根の家は、もう見えなくなってしまった。



あれこれ思いをめぐらすうちに、次第に茅夏の足取りが、遅くなっていく。

国道に出た時には、すっかりあたりが暗くなっていた。

茅夏の脇を、ライトをつけた車が幾つも追い越していく。

2つ先の信号を渡ってすぐの、小さなスーパーの脇に、ひとつバス停があったはずだ。もし、時間が合わないようなら、そのスーパーで時間を潰してればいい。

店のレジ袋を提げて、家路を急ぐ人と、茅夏は何度かすれ違った。

もう夕飯時だ。圭介はご飯どうするんだろ。全く料理の出来ない夫の顔が浮かんで、咄嗟にかき消した。

(「出て行け」て言ったのは圭介なんだから、私が彼を心配することないよね)

お腹が空いてるわけじゃないが、バスで駅に出たら、ひとりでうんと、美味しいもの食べてやろ。そんな決意を新たに、また足を運ぶ。

バス停で時刻を確かめると、10分後にバスは来るようだ。

(微妙な時間だな)

と、外から店内を覗きこんだ。

歩いていける距離にあるスーパーはここだけだから、品揃えがイマイチ、ちょっと値段も高い、と文句を言いながら、茅夏もよく利用している。

昨日もここで買い物をした。


結婚当初は、車もなかったから、休みの日には圭介ともよく来たものだ。



「なあ、試食のラーメンうまかった。夜ラーメンにしない?」

「ええ? 私、今日はシチューが食べたい。もうじゃがいもも鶏肉も買っちゃったもの」

「作ってもらえるんだから、文句言っちゃダメか」

既に手にしてた袋入りラーメンを、圭介は未練がましく棚に戻そうとする。

「あ、待って」

「ん?」

「じゃあ、いいよ。シチューは明日にするから」

圭介の手から、奪い取ったそれを、茅夏が乱暴にかごに入れると。

「やりぃ」圭介は破顔する。

まだ茅夏は料理がうまくなくて、手際も良くなくて、先に麺だけ茹でてしまったが、スープと具材が間に合わず、出来た頃にはのびきってしまってたラーメンを、圭介はそれでも美味しそうに啜ってた。


あの頃の方が、圭介優しかったな。けれど、もしかしたら同じ事を圭介も感じてるのかもしれない。


夫婦なんて合わせ鏡みたいなものだ。優しくされれば嬉しい。愛されれば、愛しい。冷たくされれば、他人からの同じ仕打ちよりも、余計に反発も文句も多くなる。



「ママ今日はハンバーグだね」

5歳くらいの男の子が、自動ドアから出てきた瞬間に、言った言葉が茅夏の耳にも飛び込んできた。

(ああああっ。昨日買ったひき肉、冷蔵庫に入れっ放しだ)

圭介の好きなハンバーグ作ろうと思って買ったのに、今日までだったじゃん、賞味期限。

冷蔵庫を開けた圭介が、食材の賞味期限に気づくとは思えないし、気づいたところで、使ってくれたり、冷凍保存してくれたり。

(…ないよなあ)

100グラム88円の特売で買ったお肉、328グラム。腐らせるの忍びない。

そして、勢いのみで出てきてしまったものの、少し冷えた身体と頭に、それはちょうどいい口実にも思えた。

(…帰ろう)

独身時代の貯金で、美味しいもの食べて、ウインドーショッピングして、夜になって、圭介から請われたら、勿体つけて帰ってもいい。そんな風に思っていたのだが。

茅夏の目に、待ち焦がれていた駅前行きのバスが入った。

けれど、彼女はそのバスを止めることなく、再び元来た道を歩き始める。その時。

クラクションの音が響いた。


 

 

 

「茅夏っ」

 

 

傍迷惑に、突如一車線の道路の片側に車を寄せて、警報音だけでは物足りなさげに、窓から彼女の名を呼んだのは、夫だった。

後部車両のドライバーのイラッとした顔が、茅夏には見えたが、圭介は構わず茅夏のカバンを奪い取り、「早く乗れ」と強引に彼女の身体を助手席に押し込んだ。

「帰るぞ」

有無を言わせぬ調子で圭介は言って、再び車を走らせる。

「私帰るなんて言ってない」いつもなら口をついて出てしまいそうな、茅夏の強がりも、そして謝罪も、言わせない圭介の強引さが、茅夏は嬉しかった。

カーステからは、新譜のCDでなく、ふたりが付き合ってた頃によく聴いた、歌が流れてる。

懐かしいメロディが茅夏の心も少しだけ過去に巻き戻す。

素直に自然に茅夏の口からはその言葉が出ていた。



「ただいま」