現状維持のジレンマ#3

 

ぼんやりとそんなことを思い出して、スマホを耳に当てたまま、私は無口になる。

 

「いや、あのね、瞳子がいいんだったらいいんだけど」

私が黙ってしまったからか、栞が慌ててフォローしてくる。

「及川くん、人柄がいいのは、瞳子の話とか聞いてわかってるし、アレだけど…フリーターやってるんだっけ」

「うん。今は運送会社の仕分けのバイトやってる」

深夜働けて、割がいいから、って。きょうちゃんは、早くに両親を亡くしてて、だからあのぼろ一軒家はきょうちゃんのものだけど、他は生活費全部自分で稼いでる。

実家住まいで、家に3万しか入れてない私より(一応正社員だけど)、頑張ってるのに。

 

「そっか…それじゃ、まだ先だよね」

栞はこっちを憐れむように言ってきた。

 

先、って何が? 結婚が? きょうちゃんが正社員じゃないから?

で、結婚もしてもらえない私、可哀想、みたいな?

 

やだな、親友の言葉をこんな風に裏を探っちゃうの。マウンティングされてる、なんて

思うのは、私が卑屈だからで、そうだとしたら、きょうちゃんが正社員じゃないのを、いちばん拘ってるのは、私、ってこと?

 

 

そのあと、栞とした会話はよく覚えてない。

「結婚式で会えるの楽しみにしてるね」と栞の台詞のあと、私はすぐに通話を切って、今度はきょうちゃんのとこに掛けた。

 

仕事中のせいか、私から掛けた時は出てくれなくて、20分くらいしてから、折り返しの電話があった。

 

「とーこちゃん、どうしたの?」

 

仕事だとわかってる日に、私は電話なんてめったにしないから、余程のことがあったと思ったらしい。きょうちゃんは、いきなり心配そうだった。

(…優しい。いつものきょうちゃんだ)

仕事行ってるってことは、昨日の落選のショックからは、もう復活したんだよね。

良かった、って安心すると同時に、やっぱりこの人好きだな…って思って、涙がこぼれた。

 

「…ううん、何でもない。心配かけてごめん。お仕事頑張ってね」

 

それは強がりじゃなかったのに、きょうちゃんは仕事明けにわざわざ私のところに寄ってくれた。

夜中の3時。ベッドでうとうとしてた私は、ぷぷってLINEの短いメッセージ音で目を覚ます。

はっと飛び起きて、スマホを見ると、きょうちゃんからだった。

――起きてる?

そうあったメッセージに「寝てたよ」って返す。

――ごめん。今、とーこちゃんの部屋の下なんだ

びっくりして、私はベッドから出て、カーテンを開ける。窓のから、愛車の原チャにまたがったまま、こっちを見てるきょうちゃんがいた。

目が合うと、にかってきょうちゃんが笑う。

窓越しの会話なんてかったるくてしてらんない、と思って、家族が起きないように外に出た。

 

「…とーこちゃん」

鉄砲玉みたいな私の行動に、きょうちゃんが目を白黒させてる。

「私の方が、びっくりだよ。何でいるの?」

「メッセージ送って、3分返事がなかったら、帰るつもりだったよ。起きてたことにも、家飛び出してきたことにもびっくり」

「…だって」

 

栞の電話から、なんかもやもやして。

きょうちゃんの声が聴きたくなって、電話して。

声が聴けたら、今度は会いたくなって、そしたらきょうちゃんがすぐ近くに来てくれた。

 

「会いたいなあ、って思ってたから…」

「昨日会ったじゃん」

「昨日のきょうちゃんと、今日のきょうちゃんは違うじゃん」

「とーこちゃん、座布団一枚」

「洒落じゃなーい」

 

夜中の3時。家の真ん前の道路。突発的で、刹那的な逢瀬なのに、どうしてこんな呑気な会話になっちゃうんだろ。

 

「…とーこちゃんも、昨日と今日、違うよ?」

きょうちゃんの手が、私の手をぎゅって握る。「どうしたの?」と、きょうちゃんはさっきの電話と同じこと聞いてくる。

 

伊達に小説なんて書いてない。きょうちゃんはすごく人の心の変化や機微に敏感だ。それは自分の内面に対してもで、だから喜怒哀楽がはっきりしてるし、感情の起伏も大きい。

子どもみたいな感情の波と、オトナびた冷静な観察力と洞察力。真逆に見える性質を、コインの裏表みたいに当たり前に、きょうちゃんは持ってる。

 

「栞が…」

「ん?」

「栞がね、結婚するんだって。結婚式の招待状もらったの」

「へえ、そうなの? おめ…」

おめでとう、と言いかけた唇を、きょうちゃんは咄嗟に閉じた。きっと、私の表情が、「友人の結婚」を喜んでいるように見えなかったからだろう。

 

「そっか…」

私の左手を握ってた手のひらを、いったん離して私の背中に回すと、きょうちゃんは私をぎゅって抱き寄せる。

密着したきょうちゃんの肩から、少し汗の匂いがした。…頑張ってお仕事してきた人の匂いだ。

 

「とーこちゃん…ごめんね」

こんな真夜中の静寂の中でも、耳を澄ませていなければ、聞こえない程小さな声で、きょうちゃんが言う。

『栞、結婚するんだって。羨ましいね。私も早く結婚したいな』

そんな本音は、私はこの人にだけは言えなくなる。

 

だって、私の気持ちを誰より汲んでるのもきょうちゃんだし、現状、私の希望を阻んでるのも、きょうちゃんだから。

 

きょうちゃんが好きなのに。

こんな風に会いに来てくれて嬉しいのに。

胸の中のもやもやっとした感情は、電話した時より、はるかにふくらんだ。